「今を生きる」第385回 大分合同新聞 令和2年8月10日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(211)
仏教の言葉に「おのれさえ おのれの ものでない」という言葉があります。
自我意識ができる前に身体は生まれてきています。自我意識は成長と共に発達してきます。意識自体は眼、鼻、耳、舌、身の五つの感覚器官で感じたものをまとめて認識する機能を持っています。意識は幼い頃はあるがままの自分を受け止めて生きていたのです。身体の快・不快、痛い、かゆいは身体的表現で知らせるでしょうが、心の不足不満はあまり感じてなかったでしょう、比較することがないのですから。
身体と意識機能はコンピュ−ターのハード(固定した装置)みたいなものです。そのハードをどういうソフト(運用方法など)で使うかは、発育の過程での周囲の環境から学ぶのです。日本に住んでいるならば、日本語を学び、生活習慣を身に付け、遊びなどの人間関係で社会性を学び、学校で基礎文化を教えられます。
成長と共に自我意識が発達して私という「我」があり、私の「身体」、そして種々の「我が物」があると考えるようになってきます。意識は後に出てきたのに、身体を自分の持ち物のように私有化していきます。そしていつの間にか管理支配するようになっています。しかし、厳密には身体は「縁起の法」によって成り立ち、動いています。
身体は法によって動くために、背の高低、病気になる、走るのが遅い、容姿が親に似ているなど、自我意識の思い通りにならないことが起こります。するとそのことが苦や悩みになります。自我意識は自分が悪いと全く思いませんから、その苦悩の原因を外に考えます。そして自分は被害者であるかのように思い、自分の置かれた状況に愚痴を言い始めるのです。何でこの両親の下に、何でこの家に、何でこの社会状況、時代状況の中に生まれてきたのかと。仏教では私自身の全ては私有化すべきではない、「賜(たまわ)り物です」と教えてくれるのです。
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