「今を生きる」第386回   大分合同新聞 令和2年8月31日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(212)
 自我意識の分別は、自分自身や周囲の環境を好き嫌い、苦楽、優越・劣等感、格好の良し悪しなど判断しながら生きています。自我は意識の中に「我慢」(思い上がりの心)と「我愛」(エゴ)を持っていますので、自我意識が出てくると与えられた状況を当たり前と考え、今より良いものを追い求めることになります。
 分別して比較すると、どんなに良い状態であっても絶対的ではなく、もっと良いものがあるから、常に心穏やかで安定ということがありません。自分の属性や周囲の状況が嫌だと言って、それらを変えたり、別の所に行っても新たな状況が相対的であることに変わりはありません。仏教では「身土不二」といって、自分の身と周囲の環境はピッタリと一致していると教えます。
 戦中戦後を生き抜いた私の親の世代は、今から考えると激動の時代を生きたのです。私のいとこは父親を見て「人が良くて、損な役回りばっかりをしている」と思っていたそうです。親が関わっていた仏教に縁ができて仏教の学びをするようになってからは、父親も思い通りにならない現実を引き受けて、「これが私の背負うべき現実、南無阿弥陀仏」と生きていったのだと受け取れるようになった。そして、父親を見る目が変わったと言っていました。一人の人間としての父親と出会い直したのです。
 時代状況、社会状況など現実からは逃げも隠れもできません。自然災害、コロナ騒動、自分自身の老病死も同様です。
 自分の分別で現実を損得、勝ち負け、善悪、好き嫌いなどのモノサシで見て小賢(ざか)しく生きて行くと。結果として「渡る世間は鬼ばかり」となってしまうでしょう。仏の智慧(ちえ)の目を持って「物の言う声を聞く」。種々の現実は私に何を教えようとしているのか、何を目覚めさせよう、演じさせようとしているかという姿勢で生きていくことを教えてくれます。
 ある仏教者は「宿命を転じて使命に生きる。これを自由といい、横超という」言葉を残してくれています。横超とは仏の智慧をいただく世界を示します。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.