「今を生きる」第390回   大分合同新聞 令和2年11月16日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(216)
 「モリー先生との火曜日」(ミッチ・アルボム著1998年)は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)により死に直面している78歳の元大学教授モリー先生と著者である教え子との対話の記録です。
 本の中に「誰でもいずれ死ぬことはわかっている。分かっているのに、努めてそこから目をそらせようとする。いつ死んでもいいように準備すること。そうしてこそ生きている間、はるかに真剣に人生に取り組むことができるのだ」という会話があり、続いて「海と波のエピソード」というのが出てきます。
 海の中で気持ちよく過ごしていた小さな波は、ほかの波たちが次々に岸に砕けるのに気が付きます。そこへもう一つの波がやってきて、暗い顔をしている最初の波に「何がそんなに悲しいんだ」と尋ねます。最初の波は答えます。
 「『わかっちゃいないね。ぼくたち波はみんな砕けちゃうんだぜ! みんななんにもなくなる! ああ、おそろし』。すると二番目の波がこう言った。『ばか、分かっちゃいないのはおまえだよ。おまえは波なんかじゃない。海の一部分なんだよ』」
 波は風や種々の条件で起こります。波は「私は波で、海とは別のものである」と考えていますが、天気が穏やかの時はよくても、台風などが来ると岸に打ち付けられて砕けてしまいます。それを波が「ぼく砕けちゃう」と思ったら、自分の死を心配し「ああ、恐ろし」となるでしょう。分別で波と海を別々のものだと考えたら、そんな気持ちになるのでしょう。本来、波は海水の変化した仮の状態なのです。波は海水に戻るだけで、それが自然な成り行きの姿なのです。
 仮の姿に執われ振り回されるのが分別を生きる私たちです。仏智をいただけば、生きている間は迷いの思いが智慧によって転悪成善(自分に都合の悪いことでも、仏の智慧で見直すと意味のある善として受けとめられること)され続けるのです。生身が尽きる時、煩悩も滅して仏と一体となり成仏するのです。

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