「今を生きる」第391回   大分合同新聞 令和2年11月30日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(217)
 前回の「波と海の例え」ですが、私たちは「波」と「海」を分けて考えます。「私という存在が確かに今、ここに在る」と考えるのが私たちの分別思考ですが、仏教では「我が在る」と考えることは間違いだと指摘します。私たちが「在ると思っているもの」はあくまで現象的に存在しているだけで、そこに確固たる、不動のものが存在しているのではないのです。
 「縁起の法」では、私という存在は周りの環境と一体的な(一つとなった)存在で、周囲と切っても切れない関係によって存在あらしめられている、と教えます。遺伝学的には生命連鎖の37億年の最先端を生きています。私たちの先祖は数えきれないほど存続の危機を乗り越えてきたのです。飢饉の時などに私たちの先祖はきれいごとで済まされない地獄絵図の中で、他人を犠牲にして生き延びて私に命をつないでくれているのです。
 私の身体を構成しているのは全て元は命あるもので、彼らの同意もなく食物として食べたものによっています。人間は自分で光合成できませんので、光合成する植物、植物を食べた動物を殺生して食物としています。糖分などを具体的にエネルギーにするために酸素が必要です。酸素は地球上のいたるところの植物のお陰によっています。
 私が生まれてからこれまで、家族、親戚、近所の人、友人ら、さまざまな人たちやや教育によって育てられました。幼稚園、小中高の先生、私の場合は大学の教官、職員、先輩、後輩などです。大学病院では外来や入院の患者さんたち。社会人になってからは職場の先輩、同僚、赴任先で経験を積ませていただいた患者さんなど、挙げたらきりがありません。「私は人の世話になってない、自分で稼いだお金で生きている」などとは口が裂けても言えません。それは言ってみれば、パック詰めの魚や肉が外界と遮断された状態で存在しているように「真空パックの中に居る」と主張するようなものです。
 地球上で身体が維持できているのは、空気による気圧があるから存在出来ているのです。私の存在はまさに地球に、宇宙に根ざしているのです。
 私の存在を勝手に私有化すべきではありません。すべては賜りものですが、賜りものなのにお礼はしていません。そして縁次第ではいかようにも変化して、生滅を繰り返す無我、無常であるのです。

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