「今を生きる」第395回   大分合同新聞 令和3年2月8日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(221)
 人間の幸福を考えるとき「人間存在をどう考えるか」ということが大切になります。
 ある生命倫理学者が医療従事者に「人を人として見ていないような視点がある。そのことを自覚する必要があります」と苦言を呈していました。その理由として、人が人を見る場合の4つの次元を提示しています。(1)「生命」、生物学的視点。(2)「生きている身」、身体を持って具体的に生活する存在。(3)「人生」、生まれる・死ぬことや生きることの意味、存在の意味。(4)「いのち」……生きていることの全体、自我意識が生まれる前から身体は存在し、身体が死んでからも周りに影響している。(死んだ人を)憶念する人がいる限り、その存在がはたらきかけている。
 今、私が生きていることにおいて、生物学的「生命」より「いのち」と周りとの関係(関係存在)の方が圧倒的に大きいことは自我意識の強い現代人でも実感できるでしょう。
 人間存在をどの次元で受けとめているかが対人援助の医学・医療では問われます。
 私自身は現在、療養型病棟の入院患者約50人の担当医をしていますが、患者さんの把握には病歴、日々の身体状況、栄養状態、発熱の有無などの情報を考慮しています。しかし、患者さんの人生観や信条、職業歴、価値観、何を大事にして生きてきたということはほとんど把握できていません。これは生命の部分的な情報によって患者さんを把握している(つもり)ということです。時間外に看護師から入院患者の異常の電話相談を受けた時も、回診時の患者の状態と記憶している個人情報で対応しています。外来診療で長いご縁があった患者や知人の場合は、その人の人生を憶念することはあるのですが、接点の短い患者の日常診療では医療的な情報で間に合わせていますが、「人を人として見ていないような視点がある」と指摘されると、「申し分けない」と自省するしかありません。
 国の進める(人生の最後をどう迎えるかを協議する)「人生会議」の席に、患者や家族の意向を述べる関係者や、幅広く人を人と見る視点、医療従事者とは違った視点で発言してくれる宗教者にも参加して欲しいと願っています。

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