「今を生きる」第398回   大分合同新聞 令和3年4月5日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(224)
 「仏説阿弥陀経」(通称、「阿弥陀経」)という経典は「渡る世間は菩薩ばかり」という視点を教えてくれます。この経では「私たちは無数の人たちと様々な形で接して、いろんな教えを受けているのに、その本当の意味が分からないから、それが表面的な出会いに終わっている」というのです。
 本当はそうではないのです。どんな人でも私が出会った人は「友よ、小さな相対分別の考えの殻を出て、大きな仏の世界、仏の智慧を生きよ。仏道を歩め」と呼びかけ、呼び覚まし、呼び戻すは働きを、いろんな役割を演じながら見せてくれる存在なのです。仏の智慧の光に照らされて初めて、「渡る世間は菩薩ばかり」と受け止めていく視点をいただくのです。
 私の小賢しい知恵では表面的な好き嫌い、善悪、敵か味方、厳しいか優しいかくらいしか見えなくても、仏の教えに照らされると「なるほど、そうだったのか」と驚きを持って知らされるのです。お寺に行って法話を聞くのは仏の働きに出会うことです。その働きが浄土に触れている事実なのです。
 学問はなくても仏の心に触れた妙好人浅原才市(1950-1932)は「これ才市どこにおるか、浄土もろうて娑婆におる、それがよろこびナムアミダブツ」と詠っています。仏の智慧に育てられ「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった」と喜べる道に導かれているのです。
 私の周りの人の生きざまが、私にとって手本・見本となり仏道を勧めてくれています。しかし、私たちは「渡る世間は鬼ばかり」と分別して生きているので、それがなかなか受け止められません。世間には嫌な人がおります。見本・手本となるどころか、「どこかに行ってくれ」と言いたくなるような人もいます。しかし、そうではないのです。私の思いがそうさせているだけで、その人は私が考えているようにこの世を生きているのではありません。私に嫌われるために存在しているのではなく、私に大事なことを教え、気付かせ、目覚めさせようとしているのです。「あなたの周囲にいる人は、仏道に導いてくれる菩薩です」と教えてくれるのが阿弥陀経です。
 世間的な分別の視点はなくすことはできませんが、仏の智慧の視点も併せ持つことが大切です。私の周りの存在には、本当は深い意味が秘められているのです。

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