「今を生きる」第399回   大分合同新聞 令和3年4月19日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(225)
 「宿命を転じて使命に生きる。これを自由といい横超(仏の道)という」という仏教者の言葉があります。多くの人は自分の置かれた状況を素直に受け取れません。なぜこの両親の子に生まれたのか。なぜこの時代に、この地域に、こんな能力の私に…と、挙げればきりがありません。私たちは自我意識のために、自分の置かれている状況を素直に受け取ることが難しいのです。時には被害者意識で自分を消し去ろうとします。
 仏教には、そんな「自我意識とは一体何か」ということを考えてきた文化があります。自我意識は日常生活では自分を意識することなく、自分の存在を実体的に捉え、理想を追求して生きようとします。
 臓器移植の議論がなされている頃、高校1年生の子が臓器移植に否定的な父親の僧侶に「お父さんは私が臓器移植しないと生きられなくなっても、臓器を提供しないの」と聞いたそうです。父親が「子どもは子どもの人生だから、俺は知らん。お父さんは臓器移植に反対だ」と答えたら、子が「それでも人の親か」と憤慨しました。
 しかし、その僧侶は「このままにしておくのも良くないな」と考えて、数日後に「お前は人の臓器をもらってどういう生き方をしようと思っているの。のんべんだらりと毎日を生きて欲を満たすことばかり考えて」と問うたら、子は一瞬ビクッとしたので、「お前が、人間に生まれてよかった、生きてきてよかったという道を真剣に生きようとするのなら臓器をあげてもいい」と言ったそうです。それからは一切その話をしなくなったということです。
 「生きている身」は現実を受容しているのです、文句を言うのは「思いの自己」という自我意識です。「生きている身」は痛い、苦しい、疲れた、空腹だという声は発しますが、置かれている状況をそのまま受け止めて文句を言わずに生きています。
 自我意識は置かれている状況を「当然、当たり前」と考えて、他人と比べて、自分の状況が悪くなったら外の状況に文句を言い始めます。挙げ句には「頼みもしないのに親が勝手に自分を生んだ」と言い、さらに「育て方が悪かった」と悪態をつきます。そこに主体的な生き方を見い出すことはできませんが、どこに問題があるのでしょう。

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