「今を生きる」第401回   大分合同新聞 令和3年5月17日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(227)
 仏教の智慧には転悪成善(悪を転じて善と成す)という働きがあります。智慧は全ての事象の中に無限の意味を見いだすのです。
 私の仏教の師は科学者でもありました。河川の水質調査に関する環境問題の研究に足跡を残されています。師の講義の中で、パルププラントは多くの産業廃棄物が出るという問題に触れたことがあります。パルプから有用な化学物質を抽出した後、恐ろしいほどの量の不要な廃棄物が出るというのです。多くの人が時間をかけて廃棄物の処理について研究したのですが、なかなか良い方法を見つけられなかったようです。
 そんな中で、ある人が思いがけない提案をしたそうです。それは廃棄物の中にミミズを大量に入れるということでした。ミミズを入れてみると廃棄物を食べて消化したのです。そしてその排泄物は有機肥料になったというのです。
 仏教の師は、これを転悪成善の一例として講義の中で紹介されたのですが、仏の智慧というのは、分別で思考すると不都合なものを有益なものに転じる働きがあります。そのためには迷っている自我意識が仏智で翻されるということが求められます。そのために仏教の学びをするのです。
 私たちは、学びとは学校で勉強して知識を増やし生きるために役立てると思っています。仏教の智慧の学びは、それとは方向が違うのです。
 法話を聞いて知識として覚えることを私有化ということができます。私有化して「その教えを私は知っている」となると、自分の身を照らす働きが鈍(にぶ)るのです。「私は知っている」と誇るような傾向がでると、教えによって身が照らされて、照らし破られて「驚く」ということがすくない傾向になります。
 知識的に学ぶのではなく、「経は鏡なり」(お経は鏡のようなもの)というように自分の姿が照らし出される鏡として受け取ることが大切です。そのためには本を読むだけでなく人を通して聞くということが要るでしょう。禅宗の道元禅師が「仏道を習うとは自己を習うなり」と言われているように、教えによって、鏡を見るように自分の相(すがた)を表面的、深層的に知らされることが大切です。「自分のことは自分が一番よく知っている」と考えるのは傲慢(ごうまん)だと仏教は教えてくれます。

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