「今を生きる」第402回   大分合同新聞 令和3年5月31日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(228)
 前回の道元禅師の言葉「仏道を習うとは自己をなり」は、「自己を習うというは自己を忘るるなり。自己を忘するるといふは、万法に証せられるなり。万法に証せられるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落(とうらく)せしむるなり」と続きます。
 「万法に証せられる」とは、いつも「私が」と自己中心的に考えている自我意識が真理を見えなくしている事実(仏教では「迷い」という)に目覚めて、自我が顔を出す前のありのままの世界に帰れば、自然にかけがえのない人生における歩むべき道、方向性が明らかになるということです。
 周囲に対する批判的な精神はなくそうとしてもなくなりませんから、それは今まで通りで、併せてそれとは違った仏の智慧(仏智)の視点で見るのです。
 しかし、仏の視点と簡単に言っても、これは仏の教えを生きていると思われる人から聞かないと分かりません。知識として仏書を読んでも身につくものではありません。要するに、どちらの見方があるままに広く、深く、見ているかということです。
 生きている身とその周囲の事象は無関係ではなく、密接な間柄があります。周囲の状況が嫌で嫌で仕方がないというなら、その状況をあなたの思いに沿って変更してもよいのです。しかし、あなたが変えた状況は新たな事象(都合のよいこと、悪いこと共に)になります。
 変更できない時代、親、引き継いだ遺伝子などに愚痴を言うのはやめましょう。「生きている身」はその現実を受容しています。好き嫌いを言っているのは自我意識だけです。自我意識が智慧の光に照らされれば、偏見や表層だけしか見えていないこと、欲にまみれて全体が見えてない無明性に気付かされ、自然に迷いの自我ではなく仏智の目で見て行こうと変っていくのです。
 仏智によって私の存在の背後にある深い物語に気付かされると、生かされている、教えられている、願われている、支えられているという、私になされたご苦労を知らされ、「つながりと感謝の因子」が自覚されて、果たすべき役割に気付くでしょう。それが私の使命、仏から頂いた仕事と自覚されるのです。

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