「今を生きる」第404回   大分合同新聞 令和3年7月5日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(230)
 医療と仏教は人間が生まれて、生きてゆく過程で年齢を重ね、そして時には病気をして、いつかは死ぬという「生老病死」の苦悩から救い、解決することを目標としています。
 政治家は国民の声を聞いて、私たちを取り巻く社会制度や経済状況、医療制度などを良くして問題を解決しようとします。人間社会は、このように社会制度を改善することで苦悩を少なくしようとしてきました。しかし、私たちを取り巻く社会は次から次へと問題を抱え、その解決に右往左往しているのが現状です。
 医療と仏教に長年関わって思うことは、人間存在をどのように考えているかということが大切だなと思います。戦後の貧しい時代を少しだけ体験した世代としては、経済的に豊かで物が十分にあり、平穏な生活ができれば幸福な社会だと思ってきました。
 それも国民の勤勉さで実現してきましたが、昨今の新型コロナウイルスの世界的流行は、改めて「老病死」の問題を身近なものとして突き付けるものでした。よく考えてみると、生きている私の「身」は痛い、かゆい、苦しいという訴えは時々しますが、周囲の現実を受け入れています。しかし理想を追い求める自我意識は状況を「困ったな!」と不安や苦悩に揺れ動いています。
 仏教を勉強した社会活動家が、「種々の運動に取り組んでいると、人間の内面の問題が非常に“粘(ねば)い”と気付く。いかに理想的なことを決めても、人間の内面の問題は少々の簡単な社会運動では解決しないということに突き当たる」と言われていました。「政権側がいかに小賢(ざか)しく政策を進めても、その政策の受け皿である人間が受け入れる性質がなかったら、政策とはなり得ないし、成功しない。つまり、人間の性質や本質が見究められずにはその実現成就はない」というのです。
 コロナ騒動で身近になった「老病死」の問題は、医療で救命・延命し、いかに先送りしても「死」の前には敗北です。生死を超える仏教と医療の協働が願われます。

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