「今を生きる」第406回   大分合同新聞 令和3年8月9日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(232)
 世間生活では自分の内面を考えるより、自己中心的に外の事象が私にとって都合がいいか、すなわち善悪、損得、勝ち負けを考えがちです。もし私の事情に関係がなければ傍観者の姿勢を取ります。私の場合、うまく滑り込んだ医学部を6年間で卒業して、医師の資格さえ取れればと頭の中で傍観者的に考えていました。
 ところが、全国を吹き荒れた学園紛争に巻き込まれ授業のストライキに突入、その後にストを継続するか、中止して授業を受けるかの二者択一を迫られた時、頭だけでなく「身」につまされて自分が問われるという経験をしました。
 解剖学者の養老孟司氏が「現代の大学生は常識がない」と言われました。「例えば患者さんに注射をして、その注射が間違っていて患者が死んでしまったら、こちらの責任でしょう。もはや後戻りができないという経験をすると人間は変わりますよ。ところが今は、これで物事が決定してしまうという状況に若い人は置かれたことがない」と指摘し「生きるということは、その都度、後戻りのできない決断をしながら時間を過ごしていくことだということを学生は知らない。そういう意味で常識がないのです」と言われています。まさに自分が大学生の時、そうだったと思いだされます。
 身につまされる決断というと大げさですが、その経験が仏教の学びの中の「縁起の法」で、私の「身」は一刹那ごとに生滅を繰り返している「無我」だという在り方をうなずいて受け止めることができました。私は戦争という極限状態を経験してない世代ですが、新型コロナウイルス騒動はまさに戦争ともいうべき、「死」が他人事ではないことを身近に感じさせる状況です。
 地震災害や津波、原発事故、感染症の世界的流行など、縁次第では何でも起こるということを教えられました。そんな中で仏教の生死を超える道は、縁次第ではいつ死んでもおかしくない、今日、ここで無数の因や縁によって生かされていること、「在ること難し」を気付かせてくれます。
 生かされていることで私はどういう使命や仕事を果たすか、私の身に迫りくる老・病・死は私に何を演じさせようとしているのか、私が何をすべきかが問われています。私たちはこの問いに答える責任を負っているのです。

(C)Copyright 1999-2021 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.