「今を生きる」第407回   大分合同新聞 令和3年8月23日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(233)
 人間として生まれて、しばらくすると自我意識が発達してきます。自我意識すなわち「思いの我」が出るのは4,5歳ぐらいでしょうか。その自我は自分の身体を管理支配するかのような振る舞いをします。しかし、それも生身の尽きる前にはなくなります。「思いの我」は主人公のように生きていますが、生物学的には「生きている身」の中の一部分だからです。
 とある自殺の名所があり、そこから道に出てきた男がいたので、村の人が「どうなすったんですか」と聞いたら、その男が「高い木で上で首をくくろうとしたら、枝が折れて落っこちた」と言うのです。それで「大丈夫ですか」と聞いたら、「いや、びっくりした。死ぬかと思った」と。自我は追い詰められて自死しようとしたのでしょう。それなのに、枝が折れて落ちた瞬間にハッと目覚めた。このエピソードには「本当は死ぬ気がないのに死のうとしている」人間の愚かさが歴然と現れています。
 また、某新聞に70代女性の次のような投書がありました。
 私は生まれつき体が弱く、祖父の結核が感染して活発な生徒ではなかった。県立高女を受験したが、結核のために不合格になりました。戦争中、虚弱児と障害児は非国民とさげすまされた。しかし、健康で県立高女に行った友人は,動員された軍需工場で、米機の機銃掃射によって命を失った。
 22歳の時に大量の血を吐いて絶対安静となり、悲観して私は死を決意しました。どの梁(はり)にひもをかけて首をつろうかと天井を眺めていたら、その天井がメラメラと燃え出したのです。私は思わず、ハダシで外へ飛び出した。近所の人が駆けつけてくれて鎮火しました。床に戻って私は考えました。「火事に驚いて逃げ出したのは、本当は生きたかったのだ」と。
 この女性は「生きている身」すなわち「思いの我」を含めた全体の私の本音の心に気付いたのです。多くの因や縁が仮に和合して生かされ、支えられ、願いをかけられて存在する「生きている身」は、自我の分別の善悪、損得、勝ち負けの思いを超えて、現実を受容して生きているのです。

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