「今を生きる」第410回 大分合同新聞 令和3年10月25日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(236)
分別思考の問題点は「今日もまた幸福求めて四苦八苦」と生きる私には既に与えられている恩恵があるにも関わらず、それらを「当たり前」として見過ごしてしまっていて、そのことが自分の問題になっていないことだと仏教は教えてくれます。
煩悩(欲)に振り回されている狭い分別思考の人間を仏は「凡夫」と呼びます。しかし、人間は本当の意味で自分が凡夫だということが分かっていないのに、「私は凡夫ですから」と言い訳の言葉として使うことが多いのです。
仏教では頭で知識として分かることと、身体全体で感得することは別だと教えます。私が40歳前後で某公立病院の外科部長として赴任した時、仏教の師から頂いた手紙の一節に「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずることは今までお育ていただいたことへの報恩行ですよ」とありました。それまで善悪、損得だけで考えていた私は「ああ!参ったな、餓鬼畜生であった。人間になれてなかった、南無阿弥陀仏」と自然に頭が下がりました。
善悪、損得、勝ち負け、欲に振り回されている世界を仏教では「地獄・餓鬼・畜生」といいます。このお手紙のように、自分の思いにない事実を言い当てられると、あっけらかんと明るく「参った」となるのです。
人間は成長するに従い体力が付き、知識が増え学力が付き、専門的知識が付き、資格を取り、社会的地位が上がることになります。世間的には立身出世を良いことと評価しますが、仏教的には「忘恩の存在」になると言い当てています。「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」の実とは、物の背後に宿されている意味を感得するという仏の智慧を頂くことと思われます。成長につれて知識が増えることと仏の智慧を身につけることは全く違うのです。
仏教の悟りとは迷いの世界を超え、真理を体得することをいいます。それは仏教的なエリートの歩む仏道で、人から拝まれるような存在になる道です。
しかし、仏から「汝は凡夫なり」と言われる在家の人間には不可能なことでしょう。凡夫でも救われるという浄土の教は悟りではなく、人間を菩薩として拝むことの出来る人格、そして周りの人が「知恩報徳の人」と感じるような、こうべを垂れる謙虚な人間を誕生させる道です。
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