「今を生きる」第414回   大分合同新聞 令和4年1月17日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(240)
 老病死に関してフランスの哲学者ボーボワール(1908-86))は著作『老い』の中で「人生の最後の15-20年を廃品と思わせるのは、その文明が挫折していることの証明である」と書いています。
 多くの医療従事者が身に付けている唯物論的科学思考は現代社会全体に浸透しているように思われます。優秀さ、若さ・バイタリティー・強さ・美しさなどを高く評価し、それに言及することが多い一方で、苦しみ悩むこと・病気の弱者・死ぬこと・宗教といった事柄は極力避けてタブー視する傾向があるようです。
 この哲学者は、「老病死に直面する人が迷惑をかける。役に立たないので死んだ方がいい。安楽死したい」と思うのは、その考えの背後にある文明が壁に直面していることだと指摘します。どうすればその壁をなくす事ができるでしょうか。
 医療現場での関係が「丸腰の患者と二丁拳銃を持つ医療者」となっているということは、両者が自己中心の分別思考を共有する限り、無理からぬことでしょう。しかし、多くの医療機関では「基本理念」として、「患者に寄り添い」とか「患者を中心にした」と表示されるような理想を掲げています。両者が真に対等に近い関係が望まれますが、どうすればよいでしょう。
 東本願寺の学僧、清沢満之(1863 ? 1903)はローマ時代の哲学者エピクトテスの「語録」に影響を受けています。清沢は当時のエリート教育を受けた人です。結核のため40才で生涯を終えましたが、彼が仏教によって病死を受容していった記録が残されています。
 清沢が敬愛したエピクテトスは、かって奴隷の身であったのに「ローマの皇帝より自由を生きている」と言いました。皇帝の方が自由ではないかと思いますが、彼は自己中心の分別や欲、煩悩に振り回されない私の方が自由だと発言しています。
 それは自分の属性や周囲の状況をよく観察して、私の権内になく、自分の力でどうにでもできない事柄と、私の権内にあることをはっきりと区別して、「私の権内にないもの」への誤った愛着を断って、自分の考えや意志を正しく用いることが大切だといいます。そうすれば自分の境遇の中でより自由に生きることができるというのです。

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