「今を生きる」第416回 大分合同新聞 令和4年2月21日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(242)
「仏説阿弥陀経」に「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉があります。人はそれぞれの個性で輝けばいいという意味ですが、子どもたちが元気で遊んでいる様はまさに、一人一人が輝いています。自我意識が発達してない幼児期には他人と比べるとか、好き嫌い、損得、勝ち負けという思考がないので、お経の言葉のように自由自在に生きています。
辞書によれば、自由という言葉は@他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていることA物事が自分の思うままになる様―とあります。
自由という言葉は、本来は仏教用語で「自らに由(よ)る」と言う意味なので@に近いものです。「思うままになる」という意味は明治以降に加わったものと考えられています。
明治の初期に、英語のfreedom(フリーダム、権利としての自由)、liberty(リバティー、状態としての自由)の訳語として自由という言葉を使うようになってから、「思うままになる様」という意味が加わったのでしょう。
フリーダムは「最初から与えられている」、「あって然るべき」、「妨げられるべきでない」自由で、誰でも分け隔てなく与えられているという意味の言葉です。またリバティーは勝ち取って得た自由です。奴隷という身から、植民地という制約から解放・独立するというときなどに使います。両方とも欧米の思想を背景とした自由です。仏教でいうところの自由と共通する部分もありますが、その違いをよく理解して使うべきであると思われます。
現在の日本では、辞書に示されるように@とAの両方の意味で使われています。しかし、哲学や宗教を学んで見ると、Aの「自分の思いのままになる様」というのが気になります。世間的には「思いのままになる様を自由である」と考えられていますが、自由とは自分の欲望の赴くままに生きることではありません。むしろ、それは哲学的な理解では隷属的な生き方で、自我意識の思いや感情の奴隷になっている状態だというのです。
仏教では、私が存在することの背後に宿されている意味を感得して、そのおのずからしからしめられる役割、使命を演ずることが自由であると言います。人は生まれながらに自由なのではなく、習慣や学習、徳育などによって初めて自立して自由になれるのではないでしょうか。
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