「今を生きる」第417回   大分合同新聞 令和4年3月7日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(243)
 加賀乙彦氏は14歳で陸軍幼年学校に進むも16歳で戦争が終わり、終戦後は普通の中学に復学して、激動の時代を経験しながら精神科医になっています。医師になってからは、刑務所の医務官として死刑囚や無期懲役囚の心理を研究した論文や小説を書いています。
 刑務所で知り合った死刑囚(A氏)との対話を続けていましたが、A氏は40歳で死刑執行されました。16年間の信仰や宗教に関する濃い対話の途中でした。加賀氏は彼の死を悼んでエッセーを発表しています。
 それを読んだある女性から「私は最後の3年間A氏と文通をして、その手紙が約600通あります」という連絡があり、加賀氏はそれを読ませてもらったそうです。16年間の対話でA氏の人間像のイメージを把握していたつもりであったが、女性との手紙を読んだ時にショックを受けた述懐しています。そこには自分が想像したイメージとは全く異なる人間像があったというのです。
 その後A氏の母親から連絡があり、残された親子の往復書簡、その他の資料を全て加賀先生へ渡すようにーという息子の遺言があったと伝えられます。受け取った手紙を読み終わるのに数年かかったそうです。そして親子の往復書簡を読んだ後は、また全く異なる人間像が出てきたという感想を述べています。
 加賀氏は医師として病歴、家族歴、成育歴、病状などを面談時に聞いて、患者との対話を通して人間像を把握してきました。経験も積んで患者の把握には自信を持っていたそうですが、A氏との16年間の対話、彼女との3年間の文通資料や親子の往復書簡を読んで、人間というものは分からないということ、分別思考で考える人間像や心の理解というものの狭さを実感したと書いています。
 この経験から加賀氏は「私たちが科学(医学を含む)で何かやるということは、あるところまでは知っているが、そこから先は闇で何も知らないということが分かる」と、科学には限界があると考えるようになりました。「人間の集積した知識なんて全宇宙の知識に比べたらほんの微々たるものです。不可思議な無限の闇の中に我々は投げ出されている。そして、人生や宗教というものは科学の対象にはならない」と書かれています。

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