「今を生きる」第418回   大分合同新聞 令和4年3月28日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(244)
 私が尊敬する僧侶の話です。若い頃に「仏法の話を聞いても分からない」と言っていたら、先輩が「あなたは聞いているつもりかも知れないが、本当は何も聞いていない」と言われたそうです。私はその話を聞いて「話は聞いているのに、聞いていないとは、どういうこと?」と思いました。音や声や言葉を聞いているのに。
 小学校の教師が「授業中は先生の言うことをちゃんと聞きなさい」と注意をするのは、「話をよく聞いて、よく考えて理解しなさい」という意味です。「先生や親の言うことをよく聞いて、理解して行動に移してください」ということでしょう。
 教育において重要なことは、人格の育成と知識、文化の伝承ということを聞いたことがあります。しかし、私の受けてきた教育は知識の伝承が主であったように思います。当時の私にとって、小ざかしさゆえに、授業は知識を増やして試験で良い点数を取るためのものだったからかも知れません。
 そんな世間的な発想で法話を聞いても、仏教や宗教にまつわる知識を集めているだけです。外側の知識だけを増やしも、仏教の核心に触れないまま面白くないと言って途中で止めてしまう事が多いと思われます。仏法の話を聞いて、その内容を自分の理知分別で理解しようとしているのですが、それは不可能なことなのです。仏法はあなたの分別思考を遥かに超えた大きいものです。それを無理やり理解の箱の中に入れようとするから、仏法が聞こえてこないのだと思います。
 地域や民族、時代を超えて広がり、悟り、気づき、目覚めを教える普遍的な宗教は世間とは異質な世界です。それは私たちの発想を超えた世界観を持っているからです。日常とは違った世界から私たちの発想を照らされる時、私たちの思考の狭さを知らされ、同時に意識(心)の中に潜む煩悩性が照らし出され、目覚めさせられます。
 法話の中で言っていることを「本当にそうだ。自分のことを言い当てている」と素直に受け取り、そのまま頷けることが「聞いた」「聞こえた」ということだったのです。

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