「今を生きる」第419回   大分合同新聞 令和4年4月18日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(245)
 仏の智慧の言葉で言いあてられた自分の相(すがた)に、「本当にそうだな」、「言われる通りだ」と受け取れることが「本当に聞こえた」ということです。
 「分かりたい」と思って聞いているのは、仏法という圧倒的に大きなものを自分の理解できる範囲の箱の中に取り込もうと努力をしているのでしょうが、理論的に不可能なことなのです。なぜなら、次元や質が高いものを低い次元で把握しようとしているからです。しかし、人間の理知分別の理想主義というのは、今は無理でも将来は自分の努力で理解できるようになると思い込んでいるのです。
 日本語の原則として「大きなものは述語になれない」という哲学者の西田幾多郎先生の言葉と聞いたことがあります。例えば「私は親を大事にしています」ということを言う人がいます。親を大事にしているということは、財力など扶養する能力、体力や親を思う慈愛の深さが十分にある子が言えることです。親に心配をかけたり、経済的な負担をかけて種々の援助を受けているような「親におんぶに抱っこ」の子どもが、言葉だけで「私は親を大事にしています」と言っても、事情をよく知っている人は「何を言っているの」と発言をたしなめることでしょう。これは卑近な例ですが、「私は仏様を大切にしています」という発言にも同じことが言えると思います。
 仏教においては自分を中心に外側を対象化して観察するという視点が迷いの本(もと)です。自分自身の全体像が見えてないから、決定的に全体が見えてないのです。それなのに、私たちは「自分のことは自分が一番よく知っている」という前提を無意識のうちに自明の理としているのです。
 法話や仏書の教えが、普段は思いもしなかった自分のことを、言い当てた時に、驚くことが大切です。それが「私を超えたものに触れる」ということです。仏の光(無量光、智慧)によって私の相が照らし出された瞬間なのです。しかし、人間の思考は自分の経験をいつの間にか私有化して、それを「私は分かっている」と知識化してしまうのです。仏教ではこれを、なんでも取り込もうとする餓鬼根性といいます。これが私の実態なのです。ただの表面的な反省ではなく、自分の心の在り様にまで深く気付き、それに目覚める事はとても難しいのです。

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