「今を生きる」第421回   大分合同新聞 令和4年5月23日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(247)
 よく耳にする言葉に「自分のことは自分が一番よく知っている」というのがあります。確かに、現在の心の在り様を実感しているのは自分だと思います。しかし、それは言葉や論理だけで自分の思いを自分流に理解しているだけなのです。
 庭で枯葉や焚き木を燃やすとき、よく燃えるように火箸でたき木をつかもうとすると、思ったより熱くて、後ずさりすることがあります。頭で考えていたのより、実際に身体で感じたものが本当の熱さです。それは見た目で考えた想定とは違っています。「自分のことは自分が一番よく知っている」というのは、自分に起きたことを理屈で受け止めても事実との間には差があることを知らない発言です。
 私たちの日常的な思考では仏教でいう「空(くう)」は理解できません。それで「空というものはどんなものか」という研究をしているうちに、「では、それを受け取める意識とはどんなものか」という考究から唯識(ゆいしき)という学問が始まったようです。無意識や深層心理について深く広く考えて、心の在り様を末那(まな)識、阿頼耶(あらや)識などと表現しました。
 末那識は人間に意識されない煩悩の領域を想定せずには心の動きが理解できないとされて命名されていったのです。私たちが眠って翌朝に目覚める時、眠る前と同じ意識で目覚め、その自我意識は毎日続いています。その継続する無意識の領域を阿頼耶識と命名したのです。これらの考察が、日本では弥生時代の紀元2世紀ごろのインドや中国でなされていたのは驚きです。
 仏教の深層心理の思索では、人間の「自分のことは自分が一番よく知っている」という思い込みは自分を表面的に、局所的にしか把握していないと見破るのです。
 釈尊の教えの真髄は虚妄(実のない偽り)分別からの脱却です。理性的な科学思考を間違いと言っているのではなく、煩悩を秘めた人間の思考では真実を知るには限界があるので、分際を自覚しながら謙虚に人生の課題を考えようというのです。私たちの思考では人生の全体が見えてないので生死の迷いを繰り返している。その自覚がない傲慢さに気づいて、人生をあるがままに自然に受け止め、生きる姿勢を正していくことを勧めているのです。

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