「今を生きる」第424回   大分合同新聞 令和4年7月18日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(250)
 「自分のことは自分が一番よく知っている」に関しての経験です。
 私の思いを翻(ひるがえ)させられことが最近ありました。我が家では私が最後に風呂に入って掃除をすることになっています。そして風呂からあがったら入り口の足拭きを干すように決めています。そのことで最近、家人から「いつもお風呂の足拭きが干してないね」と言われました。気付いたときは必ず干しているので、「できるだけしているつもりだがなあ」と言い訳をしました。だから言われることは不本意でしたが、もう一度考えてみたのです。
 気づいた時はやっていますから、自分が「干した」という記憶はたいてい残っています。逆に「干さなかった」という記憶は私に残るはずがありません。問題は常日頃から「干すこと」に注意が行っていたかどうかです。「干してなかった」という忠告については、私は次の日に風呂に入るまで脱衣場に行かないので第三者の意見が正しいでしょう。そうすると家人の指摘を承諾するしかありません。私の自己中心的な思いによって全体が見えてなかったと痛感させられました。
 あるお寺で法話を聞いていた女性が、自分の太ももをつねって目を覚まそうとしていたそうです。女性はそれを繰り返していましたが、覚まそうとする手もいっしょにこっくりとしてしまったそうです。彼女は眠るまいと努力していたのですが、つねる手も一緒にこっくりと。それで目覚めさせる方法で一番良いのは目覚めている人に注意してもらうことだと言っていました。
 徒然草に、「仁和寺の僧がいつかは石清水八幡宮に参りたいと思っていた。ある時思いたって一人で参詣し、極楽寺・高良神社などを拝んで、これが石清水八幡宮と勘違いして帰ってきた。そして知り合いに、『長年の思いを果たしました。参詣する人が山に登っていたので興味はありましたが、目的は達成したと思って山には行かずに帰ってきました』と言ったという話があります。著者は「少しのことにも、その道に通じて導いてくれる人は欲しいものである」と書いています。
 自分の分際を知って謙虚になり、気づき、目覚めた先達に助言してもらうことの大切さを思わせられます。

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