「今を生きる」第425回   大分合同新聞 令和4年8月15日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(251)
 生活習慣病の高血圧症で通院している私と同世代の元気な女性がいます。徒歩か自転車で診察に来られるのですが、「前回30日分の薬を処方しましたが、1か月をかなり過ぎていますので薬を服用してない日はありませんか」と確認しました。彼女は「薬は毎日飲んでいます。あと少しでなくなるので今日参りました」と答えます。
 私が「前回に処方してから今日で40日になります」と言うと、頭はしっかりとして認知症の気配もないその女性は、「薬は机の引き出しに入れていて、注意して毎日飲むようにしています。必ず服用するようにしていますから忘れるはずはありません」。
 忘れずに薬を服用していて、その意識というか記憶は確かにあるのですね」と聞いてみると、女性は「はい」と答えます。私がわざと「服用しなかったという記憶はありますか」と聞くと、女性はちょっと考えて「それはありません。でも飲まなかったという記憶が残るはずはないと思います」と首をかしげていました。最後に「忘れないようにカレンダーに薬を張り付けておいて、まだ薬が貼ってあれば服用するようにしたら飲み忘れが減りますよ」と伝えました。
 自分の思いや記憶を確かなものとするのではなく、客観的に確実な方法と組み合わせる方法で飲み忘れ、飲みすぎをしないように工夫すればいいと思います。
 加齢とともに記憶力が低下しているのに「自分のことは自分が一番知っている」と頑固になると、周囲とのさまざまな軋轢(あつれき)が増えることになります。そういうあり方を仏教では「我痴・我見」と言い、自分の見たこと知ったことは間違いないととらわれる愚かさを指摘します。自分の考えや行動に問題があれば自己中心的なところを自覚して、家族や親しい人に注意をしてもらうくらいの大らかさがあることが願われます。
 縁起の法の「無我」とは、仏教の「空」に通じる言葉です。偏見や思い込み、主義、主張、好き嫌い、損得、勝ち負け、善悪を忘れて、自分を空っぽにするのです。そして私の周囲の状況を謙虚に受けとめ、総合的に考え、少しでも良かれと思う方向に行動するのです。自分の思いにとらわれたり、感情の奴隷になることがないように仏の智慧は柔軟心ということを教えています。

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