「今を生きる」第427回   大分合同新聞 令和4年9月19日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(253)
 大分大学医学部医学科・看護学科や、以前、奉職していた龍谷大学文学部の講義で「医療と仏教は、同じ生老病死の四苦を共通の課題にしています」という内容の話をする、と多くの学生が「医療と仏教が同じことを課題にしているというのは初めて聞きました」という反応を示します。医学の進歩によって、確かに医療は多くの病気に対応することができるようになりました。現実問題として言えば、老病死を先送りすることで統計的には日本人の平均寿命は世界に誇ることのできる水準になっています。
 ただ医療と仏教が同じ課題に取り組むと言っても、「平均寿命を延ばすために仏教は何か貢献しているか」と問われても目に見える貢献はしていません。そうではなくて、仏教は「生老病死という四苦」への対応に力を発揮しているのです。そのヒントはドイツの哲学者フィヒテ(1762-1814)の「死ぬ心配をする人は、『今』を生きてない」という言葉です。
 この言葉で思い出すのは。がんによって49歳で亡くなった親しいいとこの嘆きです。病状が進み治療の見込みが立たなくなった時、私が「病気を良くすることより、症状の緩和に重点を移した方がいいかも知れない」という趣旨のアドバイスをしました。すると彼は「明るい方向が見えないと言いうのは、いたたまれない」と言うのです。それを聞いて、私には次の言葉が出てきませんでした。
 私たちの世代は戦後の貧しい時代から右肩上がりの経済の発展の中を生きてきました。貧しかった当時の状況からすれば「現在の豊かさに何の不満があるだろうか」と思います。それでも、その満足は「足るを知る(知足)」というものではありません。
 私たちは日頃の生活で量的に測れる領域で満足を目指しています。しかし、都合よく行っているうちは一時的な満足は得られますが、すぐにそれが当たり前になってしまって、これで十分だと満足する知足の思いなくなるようです。大腸がんの手術を受けた人がしばらくの間は助かったと喜んでいたのに、1年もするとその思いは忘れてしまったと言っていました。
 日頃分別の思いや願い、欲を満たすことで満足が得られるという私たちの思考方法、明るい理想を目指す理想主義を仏教は「無明」「智慧がない」と言い当てているのです。

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