「今を生きる」第428回 大分合同新聞 令和4年10月3日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(254)
「明るい方向が見えないというのは、いたたまれない」と言ったいとこの言葉、そして希望や願い、欲を満たすことで満足が得られるという考え方、明るい方向を目指す分別思考の理想主義を仏教は「無明」「智慧がない」と言い当てています。それはわれわれの考え方の問題を指摘しているのです。
私たちは世間生活をする上で思考を止めるわけはいきません。しかし、仏の智慧の視点で私たちの在り様を大局的に照らし出されながら、その良い点や悪い点を客観的に見極めながら迷いを超えて生きることに導くのが仏教です。
私たちは明るい未来を目指して生きていますが、仮に思い通りになって一時的な満足を得られても、すぐそれが当たり前になってしまいます。どこまで行っても達成する満足を知らない思考、こころの働きを、仏教は煩悩と言っているのです。明るい方向を目指していても必ず老病死に出くわします。そこで「年を取って何も良いことはない、目は薄くなり、耳は遠くなる…」と愚痴を言うようになると、まさに「空過流転の人生」となるでしょう。
明日の夢を追いかけるのでなく、「今」を生きるとは「この秋は雨か嵐か知らねども 今日の勤めに田草取るなり」(二宮尊徳の道歌)のように与えられた現実を受け止め、今日の私の役割、使命を粛々と果たして行くことなのです。
ドイツの哲学者フィヒテの「死ぬ心配をする人は『今』を生きていない」という言葉は今ここで地に足を着けて生きずに、未来の希望を追い求める生き方は必ず行き詰まり空過流転になり、生きても生きたことにならないとの警告です。
国東市朝来の西白寺に仏書を求めて通ったという安岐町出身の江戸時代の哲学者三浦梅園は、晩年に「人生恨むなかれ 人知るなきを 幽谷深山 華自ずから紅なり」という「私は私で良かった」という意味の書を残しています。時代を超え、地域を超えて、知足の生活の実現していることを教えています。
幽霊の絵には足がありません。それは「今」「ここ」の地に足を着けてない様を象徴しています。両手を前に出し、明日こそ、明日こそと夢見ているのです。髪が後ろなびいているのは、終わったことを未練がましく後悔している様を示しているのでしょう。
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