「今を生きる」第429回   大分合同新聞 令和4年10月17日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(255)
 ドイツの哲学者フィヒテの「死ぬ心配をする人は、『今』を生きていない」という言葉を、仏教では「明日はない。今日ここしかない。今、生きることに精進しなさい」と受け止めています。
 しかし、私たちはまだ来ぬ将来を心配して悩み、そのために食欲不振や不眠になることもあります。また、過ぎた過去のことをいろいろ後悔して苦悩します。仏教ではそのようなときには、過去や未来のことを仏の智慧(ち/え)で切りなさいと教えています。しかし、現実には仏の教えでもなかなか切れません。
 仏の智慧は私の思いを実現する道具ではなく、思考の在り様を照らす鏡なのです。心配や苦悩の原因は、私たちが周りの事象を善悪・損得・勝ち負けの尺度で測り、自分の思いにかなうように周囲を変えようとしても、思い通りにならない現実です。仏教の悟り・目覚めは、分別思考が私を苦悩させる元凶だと指摘するのです。
 仏教の師の法話を聞いて仏書を読むという、長年の仏教の学びから気付かされることは、仏教の悟りや目覚めの内容は私の理性・知性の理解を超えているということです。仏教の智慧に触れてみて、自分の普通の思考が狭く低次元であること、思考が煩悩に汚染されていることに驚かされるのです。
 医学・生物学を学ぶことは煩悩に汚染されることは少なく、客観性を保てているように思われます。数学や物理のような学問体系の世界では事実を事実として冷静に認識します。しかし、名声や地位、金銭、競争心などといった世俗と少しでも接点を持つと、汚染と迷いを免れないのです。
 私たちの生活の場は、善悪、損得、勝ち負け、好き嫌いが渦巻く現場です。これを仏教では穢土(え/ど)(欲で汚れた場)といいます。逆に、仏の智慧、悟りの世界は清浄であるから、私の思考の汚染が知らされるのです。仏教は私の生きる姿勢を正してくれる鏡みたいなものです。欲にまみれて迷いを繰り返して生きることは空過流転(欲に振り回されむなしく生きること)で、本当に生きたことにならないと教えます。仏の教えによって迷いの姿に気付かされることは、迷いを超える大きな一歩なのです。

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