「今を生きる」第433回   大分合同新聞 令和4年12月26日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(259)
 生老病死の四苦は医療と仏教の共通の課題です。その中でも、老と病は「死」の影が脳裏をよぎります。医療が「健康で長生き」を目指して老病の治療をすることで「死の先送り」をしているのも現実です。
 自我意識というのは、私を取り巻く状況が私の幸・不幸を決めると考えます。だから周囲に注意してプラス価値を集め、マイナス価値を減らす努力を繰り返しています。多くの人は「健康で長生きが一番」と幸福を目指して生きていますが、仏教では結果として「死」に向かっての生きている事実を「生死(しょうじ)」と表現して、生死というのは迷いの人生という意味で使われます。
 周りの状況、条件が私の幸・不幸を決めると考えて、これまで自分の思い、夢、希望、欲を満たす取り組みを続けてきました。しかし、いつの間にか実現できたことが当たり前になって、次なる課題に関心が移っていくことの繰り返しになっています。
 哲学者や宗教者は、人の幸・不幸を決めるのは外的要因ではなく、その事象をどう受け止めるかということが重要であると指摘しています。昭和30年代後半には、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電が「三種の神器」として憧れの的でした。現在では、さらに電話、車、エアコン、食糧などでも多くの日本人が豊かさを享受しています。外の要因が幸福を決めるのであれば満足度はかなり高いはずです。
 約30年前の国民健康保険に関係する雑誌の巻頭言に「世界一の長寿を誇り、金持ちの国日本と謳われているが何となく虚しく充実感がない。物質的な欲望は満たされているのに我々は生きているという実感と歓びが無いのである。これは一体どうしたことであろうか」という文章がありました。幸福な人生を目指して生きてきたのに、どうも最後はそうなっていないようです。仏教はそれを「あっという間に時間だけが経って空過流転した。生きても生きたことにならない虚しさへ向かう生き方だ」と指摘するのです。
 古代ギリシャの哲学者プラトンは、「人間の欲や愛や夢は、いつも自分にないものを恋い慕う心情であり、この問題点は、充足すればその思いは止む」と指摘しています。満たされれば、そのうち当たり前になってしまいますという人間の気持ちが問題なのです。

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