「今を生きる」第437回 大分合同新聞 令和5年3月6日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(263)
仏教では「生老病死」の四苦を課題としています。「生(しょう)」は生まれることを意味していて、生きる苦しみではないようです。生まれる「苦」とは、生まれる場所、条件を選べなくて、取り巻く周囲の状況は自分の意志に関係なく受動的です。そして、この世で思い通りにならない「生(せい)」を生きていくことになります。老いる・病む・死ぬ苦しみはお分かりになると思います。
生死(しょうじ)とは、仏教では「迷い」を意味します。生きて行くうえで迷い、煩悩に振り回される「惑」、細胞レベルでも生滅を繰り返す「業」、そういう人生は思い通りに進まず「苦」を免れない。おそらく、世間的には「死」に向かっての「生」は決して明るくならないでしょう。
仏教は四苦や迷いを超えることを目指します。一方、医学は「不老不死」「不老長寿」を目指して老化を克服しようとしてきました。今年の週刊医学界新聞(医学書院)の新年号には、一面に大きな活字で「老化を治療する」と見出しがあって老化研究を特集していました、京都仏光寺の8行標語に「老いを嫌い 病を怖がり 死を隠すと 「生」も隠れる。」というのがありました。フランスの哲学者パスカルは著書「パンセ」の中に「人間は明日こそ幸せになるぞ、明日こそ楽になるぞ、と死ぬまで幸せになる準備ばかりで終わる」という趣旨のことを書いています。
悟り、目覚め、気付きという教えを展開した仏教など普遍宗教は、時代・社会・地域を超えて広がりました。世界宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)は、外の要因も大事だが、それ以上に外の要因や老病死の現実を受け止める自分の意識・心の在り様が重要で、豊かな生活や幸福感・満足度を高める大きな要素だと深化させました。仏教ではその深化は世間の発想を超えているので「生死を超える」と表現したのです。
私たちの理性知性による発想には、煩悩性、すなわちどこまで行っても知足のない欲望、一時的な満足があってもすぐに当たり前・当然とする飽きっぽさ、縁しだいでコロコロ変わる思いや感情、自分の考えや主義に執われ振り回されることの自在性・柔軟心のなさが潜(ひそ)みます。仏教はこれらを深く細やかに指摘し、目覚めさせ、私たちが自己執着の執われから解放され、イキイキと輝き生きる道を教えています。
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