「今を生きる」第439回   大分合同新聞 令和5年5月1日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(265)
 北海道のお寺の坊守(住職の妻)に鈴木章子(あやこ)さんという方がいました。彼女は42歳で乳がんを発症して、種々の治療の甲斐なく病状が進行し、47歳で命終されました。亡くなる時、4人の子どもに「変換」と題する詩を残しています。

「死にむかって進んでいるのではない 今をもらって生きているのだ
今ゼロであって当然な私が 今生きている
ひき算から足し算の変換 誰が教えてくれたのでしょう
新しい生命 嬉しくて 踊っています
“いのち 日々あらたなり” うーん 分かります」

 私達は両親を縁として命を賜り、この世に生まれました。そして親から名前を付けてもらい、育てられ、食べたり飲んだりした物によって成長しました。日本語も自然に身に付いて、思想や考え方も周りの人から教えられたものです。それにも関わらず、自我意識は「今の自分」という存在を当たり前、当然のことと考えます。
 そして70歳代の半ばにもなれば、先の長くないことを実感します。目、耳、歯、鼻、足が確実に加齢現象に直面して、生きているということは種々の因縁に恵まれているということ、そして死に裏打ちされて生かされている事が分かる。自分が74歳になってみて初めて、死が迫っている事実を感じるようになりました。老病死を見てきたつもりでしたが、どこか他人事(ひとごと)であったのでしょう。
 これまで病院で見てきたのは、多くが私より年上の人たちの死でした、しかし、最近は私より年下の人の死亡診断書を書く機会も増えています。私がいつ死に直面に直面してもおかしくありません。私たちは死に向かって生きているのでなく、死に裏打ちされた「生」を生かされています。
毎日、朝目覚めて「今、今日」をいただいて生きているのです。二宮尊徳師の「この秋は雨か嵐か知らねども、今日の勤めに田草取るなり」です。
 日々の私の現前の事実に愚痴を言うのではなく、「これが私の引き受けるべき現実、南無阿弥陀仏」と大いなるものの前に「天命に安んじて人事を尽くす」のです。今日、自分に与えられた場を引き受けて完全燃焼する。そういう人には死は問題ではなくなるのです。「死が人を殺すのではなく、死せる人間、生きることのできない人間が、死を作り出すのである」ともフィヒテは言っています。

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