「今を生きる」第440回 大分合同新聞 令和5年5月22日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(266)
前回書いたように、がんでなくなった鈴木章子さんは、4人の子どもに「変換」という詩を残しています。「今、私が生きているのは、死に向かって進んでいるのではなく、今をもらっているということ。引き算から足し算の変換だ―」という内容です。
私たちは自分の置かれた境遇をなかなか受け取れません。ローマ時代の哲学者エピクトテスは奴隷の子として生まれています。しかし、自分の置かれた状況をよく見極め、自分が変更できるものとできないものを峻別して、自分ではどうにもできない事はそのままにして、どうにかできることは自分の理性で深く思考して生きていく。それを「自らに由る」、自由と言っています。そして驚くことに、「私はローマの皇帝よりは自由に生きている」と言ったのです。
私たちにすれば、皇帝と奴隷の子では境遇に格段の違いがあると考えます。このエピクトテスの時代から数十年後、哲学者として後世に名を残す、貴族出身の皇帝、マルクス・アウレリウスが出てきます。両者はストア学派の哲学者で、運命や与えられた現実をいかに受けとめ自由に生きていくかを深く思索されていて、現在でも多くの人の生きる指針となっています。
両者の境遇の違いは著明ですが、ストア学派はどんな困難であっても、事実は起こるべくして起こっており、分別せず理性的に受けとめ熟慮して、「今この瞬間を生ききる」ことは人間を成長させ、自分や国民の幸福につながると考えたのです。
アウレリウスは国のトップとして政治や多くの職務に精を出して、「自分の時間が持てたのはベッドの中に入った時だけだった」と述懐しています。
表現は違いますが、置かれた場所で粛々と赤色は赤色に、黄色は黄色の生活者になる道を自由といい、今を精一杯生きて、自体満足に導くのが仏の智慧です。
哲学者フィヒテは「死ぬ心配をする人は今を生きていない」と言いました。仏教は「今」しかない、過去や未来はないと教えます。幽霊に足がないのは今を生きておらず、未来を夢見て、過去を後悔して愚痴りながら生きているからです。そういう人生は長生きしても空過流転となり、私は私で良かったという人生を生きることにならないのではないでしょうか、と自省、変換を促しているのです。
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