「今を生きる」第441回 大分合同新聞 令和5年6月1日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(267)
鈴木章子さんの詩「変換」の後半の部分は以下です。「今ゼロであって当然な私が 今生きている (中略)新しい生命 嬉しくて 踊っています “いのち 日々あらたなり” うーん 分かります」
私達は両親を縁として命を賜り、そして名前を付けてもらい、育てられ、食べたり飲んだりした物で身体が成長しました。自然と日本語を身に付け、思想・考え方も教えられた頂き物です。
全ての瞬間が死に裏打ちされている「生」を、自我意識の私が生きているのです。仏教は「いつも今を頂いて生きている」という事実に目を覚ませと、知足(存在の満足)の世界を教えているのです。
私たちは「私が生きる」というように、「私が…、私が…」と全て「私」から始まるように発想しています。私の現前の事実を客観的に俯瞰して見ると、「私は種々のご縁の中で生かされている」と受け身的に見ることができると思います。
生き方が私を中心とした能動性から自然な在り方の受動性に変わると、「生まれた」は「命を賜った」となり、「生きる」は「生かされる」、「考える」は「考えさせられる」となります。それは「私が人生の主人公ではなく、自然の在り様が主人公だった」と言うことです。
自然のあるがままに生きることを仏教は「自らに由る」すなわち「自由」といい、無数の因や縁が集まって「縁が熟す」と表現します。自由とは本来、仏教の目覚めの言葉なのです。そこには生老病死の四苦を超える道、自由自在に生きる道が教えられているのです。
ただ思いや欲望を満たそうとする餓鬼や煩悩の奴隷である畜生として生きるか、それともあふれ出る知足の思いで世界を共に生きたいという菩薩の願いをわが願いとして生きるか。それは「面々の御はからいなり」(歎異抄)という選択を迫られているのです。
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