「今を生きる」第442回 大分合同新聞 令和5年6月26日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(268)
前回、多くの因や縁によって生かされていると受け身的に考えるのを自由ということだと書きましたが、それでは人間の意思や主体的な生き方が無くなるのではないかと感じた人は多いと思います。
その発想は、いつでも「私が…」という能動的な考えを止めることができると考えるからでしょう。しかし、仮に自由の本当の意味が分かったとしても、骨の髄まで浸み込んだ分別による自己中心的な考えは捨てられないでしょう。仏教は煩悩の汚染を見抜いています。
仏教が教える苦悩を超える道は、煩悩に汚染された思考や感情が新たな苦悩を引き起こし、苦の連鎖に振り回されている衆生を何とか救いたいという願いから起こっています。人間の思考に潜む煩悩性を仏智によって見抜いて「汝は凡夫なり」と言っているのです。人間には自分の煩悩性の一部しか分からないのです。
多くの人は自分の思考の正しさ、合理性に自信を持っています。そのために他人から注意されたり非難されることが嫌いです。仏教の師が「その人の為を思って注意しても、気にいらないことを言うと離れて行ったり縁が切れたりすることがある。だから、叱っても大丈夫な関係になって初めて注意したり叱ったりするのだ。叱る人の力量が問われるのだ」と言われていました。叱ってくれる師を持つことは貴重なことです。
よき師や友を通して伝わってくる仏教の教えは、いわば私に対する注意やお叱りの言葉なのです。叱ることを呵責(かしゃく)と言います。呵責には畢竟(ひっきょう)呵責(徹底的に叱る)、畢竟軟語(徹底的に優しい言葉をかける)、軟語呵責(優しい言葉で叱る)があります。師の優しい言葉に叱りの意味があっても、それを受け止められる私の感受性がなくてはなりません。
仏教は私に対する「呼びかけ、呼び覚まし」であり、とらわれのない自由な思考へ呼び戻す働きなのです。自己の煩悩性への目覚めが、そのまま仏智の世界に転じる働きをします。人生のあらゆる場面で念仏によって生きる姿勢が正されていくのです。
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