「今を生きる」第445回   大分合同新聞 令和5年8月21日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(271)
 叡智(えいち)や智慧は表面的なことを見るというよりは事象の背後に宿されている本質や深い意味を見出すものです。元大阪大学名誉教授で宗教哲学者の大峯顕師は仏教の智慧によって照らしだされる心の内面を見る内観の世界を次のように表現しています。
「裕福な人がお金と時間を使って世界中の綺麗で珍しい物を見て回り、おいしい物を食べたとしても、内観という世界を知らないと人生の半分を味合わずに終わったということになるでしょう」
 普通、私たちは内観の世界を経験したことがないので、「人生の半分にも相当する広がりがあるのか」と思うでしょうが、批評家の若松英輔氏は内観に相当する領域を、「私たちの中にもう一つの宇宙がある」と表現しています。その深層意識に目覚める事を仏教では、悟り、目覚め、気づき、仏の智慧を頂く(信心)というのです。その目覚めは私の分別思考の狭さを教えると同時に思考の背後に潜む煩悩性をも暴き出すのです。
 世俗生活をしながら、内観の目覚めに通じる二重世界を生きるとき、自分の価値観が相対化される大きな世界を知らされ、分別思考の執われから解放された自由な生き方に導かれます。その普遍的宗教の目覚めの領域は自然と「存在の満足」「知足」へと導くでしょう。脊髄損傷で手足の自由を失った星野富弘氏の「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」の詩はそれを表現しています。
 私たちの知の領域が底辺で目覚めの宇宙に支えられていることを自覚するとき、理知は十全たる機能を発揮するようになり、人生をいきいき生きることに導かれるでしょう。
 「死の瞬間」の著者で有名な精神科医のキューブラ・ロスは1985年の日本での講演の中で、進行したがんの患者が「私はいい生活はしてきたけれど、本当に生きたことがありません」と訴えたことを紹介しています。戦後すぐの私たち世代が貧しい生活の中で、「いい生活」をすることが「本当に生きる」ことであると考えて生きてきたことに反省を迫ります。そして「本当に生きることに目が覚めないと、諦(あきら)めと寂しさと苦い思いの中で死んでいくのです」とロス先生は臨牀経験を語っています。

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