「今を生きる」第446回   大分合同新聞 令和5年9月4日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(272)
 裕福で快適な宮殿生活をしていた国王が「老病死を見て世の非常を悟る」と言って、生老病死の四苦の解脱を目指して出家されたと経典に書かれています。
 国王だったお釈迦様は、「いい生活」をしていましたが、出家して「本当に生きる」という道を求められたのです。四苦を超える道、正覚を成就されて仏陀になった世尊は「真理を知らずに百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることの方が優れている」(「ブッダの真理の言葉、感興のことば」中村元訳)と、量的世界から質的世界への転換という気付きを表白されています。今、今日を生きていることの背後に宿されている意味への気付きを促しているのです。
 「死ぬ瞬間」の著者で有名な精神科医エリザベス・キューブラー・ロスが、がんを患い死を意識した患者から「いい生活はしてきたが、本当に生きたことがない」と訴えられたという話を、前回の稿で紹介しました。「私に本当に生きることのできる道を教えてください」との訴えに、ロス自身も、その後の人生で「本当に生きるとは」ということが課題になったと言っています。
 人間に生まれたこと、そして今を生きているという「いのち」の事実に秘められた意味への目覚め、悟りが仏法の智慧世界なのでしょう。
 若い頃から座禅の指導を受け、仏教の智慧に触れた書道家が「智慧を受けとめて生きるだけでは不十分です。日々一刻一刻の今を純粋に味わうこと、今に含まれている全てを味わい楽しみ喜ぶことです」と話していました。心の底に仏性が秘められた(己心の弥陀)、心中に浄土が備わっている(唯心の浄土)境遇を生きようとされていたのでしょう。それは真剣勝負で命に関わるような武士道ともいうべき厳しさで、一瞬の「今」を生きるというのは目覚めの世界なのでしょう。
 一方、浄土教は日頃から良い心がけや善行が難しい私たちが死にひんした時、よき師や友を通して仏の無条件の救い、大慈悲心に触れることができます。仏智(無量光)に心の底まで照らし出されて救われがたい迷いの自分の相に目覚め自然と頭が下がるのです。そして「地獄一定(地獄行きが定まっている)の私のための仏の働きでした」、「仏へお任せします、南無阿弥陀仏」の世界へ導かれるのです。

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