「今を生きる」第449回   大分合同新聞 令和5年10月23日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(275)
 前回の続きです。国は最大多数の最大幸福を目指すでしょう。しかし多くの国民は自分と自分の縁者の幸福を目指しています。ある哲学者の「人間は誰も教えてもらわなくても幸福になりたいと思う」といった趣旨の言葉が印象に残っています。
 幸福の「幸」の語源は、中国大陸最古の王朝・殷(紀元前1600―1046年)の首都の遺構(殷墟)から出土した甲骨文字によるといいます。木か竹の二本の棒の間に手を入れて両側をひもでくくり、手かせをした状態を示すそうです。手かせをされた状態がなぜ「幸」か、それは殺されずに生き残ったことの幸せという意味のようです。幸せということが相対的なことであることを教えられます。日常に使われる「海の幸」、「山の幸」の言葉には、幸の語源的な意味は全く感じられません。
 世間的に最大多数の幸福を目指す取り組みが政治、経済、社会などの活動です。その時に問題になるのは、私を取り巻く周囲の状況の課題です。私という自我意識がはっきりあるという前提で、私の周囲の条件を問題にして対応するのが普通の思考です。
 ところがお経の中に「田があれば田に悩み、家があれば家に悩む(略)、田がなければ田を欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。」の趣旨の一節があります。経典に示された通り、物に憂い、事柄に憂い、人に憂いながら生きる私たちの姿です。ここで言えることは、私の周囲に物や財産が有る・無しの事象が私を苦悩させ不安にするのではなく、それらを受けとめる心や意識が、苦悩や不安を引き起こす大きな原因という事実です。
 われわれが原因と考える外の事象を改善させたり除いても根本的な解決にならないということです。そして、その事を知った私たちは、目覚めた仏の目には「無我」「無常」であるとの指摘に驚き、気付くところから、仏法の扉が開かれていくと思われます。
 無我・無常といっても、今ここに私はあるではないか。あるのですが、その私は無数の因や縁によってつくられ、支えられ、生かされて存在するのです。医学的にいえば、縁次第ではいつ死んでもおかしくない在り方で、かろうじて生かされて存在しているのです。

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