「今を生きる」第450回   大分合同新聞 令和5年11月6日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(276)
 仏教に「大海分取の譬え」というものがあります。第二の釈迦と言われる龍樹菩薩の著作が漢文に訳された『十住毘婆沙論』にあり、仏教の教えを知る上で貴重な例え話です。大海の水(人間の苦をあらわす)を他に移そうとする(修行する)時に、一本の髪の毛で大海の水を一滴、一滴分け取って移すというのです。
 元は「滅した苦は大海の水ほどになり、まだ滅していない残りの苦はわずか2,3滴である。ようやくそこまで達した時、大きな喜びがある」という意味の漢文を、親鸞が「大海の水はほとんど残っていて、2,3滴を移した時に大きな歓喜が起こった」と読み替えたのです。
 まだ、やらなければならないことがたくさん残っているのに、ほんの少しを移し始めた時、大きな喜びが起こったという例えに変わっています。これは量的から資的な思考への変換を示そうとしているのです。量をこなす思考から確実に解決して救われる方向性がはっきりしました。
 私たちは量的な思考に慣れて、それが骨の髄までしみ込んでいます。前任地で、人間ドックを担当していたことがあります。検査結果が出て診察をした後、説明をして終わりです。受診者が15人だとすると、結構時間がかかります。終わりに近い13人目、14人目になると、「ああ!、終わりが近づいた」とほっとするのです。時間や人数に縛られて仕事をしていると、そういう日常生活が繰り返されます。
 私は運よく仏教に出遇って「生きること」を仏教に学ぶようになり、人生というものを俯瞰的に仏の智慧で考えるようになりました。私たち普段の思考では、老病死まで見通して考えると必ず不安を引き起こします。そういうことよりは楽しいことに関心を向けて、我を忘れて過ごしています。そしてあっという間に時間が過ぎてゆきます。結果として「生老病死の四苦」の解決がつかず、仏教ではそれらは空過流転になると指摘します。
 医療現場では、老病死の場面で痛みや苦しみが無いように薬物治療や看護を尽くして対応しています。多くの人がそれを希望されますが、仏教はそういう生き方の内面の孤独と虚無感、人生の不全感を問題にして、この課題の解決を量的ではなく質的に展開させ対応することを使命としているのです。次回、質的な思考について触れていきます。

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