「今を生きる」第451回 大分合同新聞 令和5年11月27日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(277)
時代、民族、社会、地域を超えて広がった普遍宗教は人生を生きることの孤独や虚しさ、不全感を問題にしています。
蚕(かいこ)があたかも自分を守ろうとして繭(まゆ)のなかに閉じこもることや、村上志染の「水馬(みずすまし)」という詩「方一尺の天地 水馬しきりに 円を描ける なんじ いずこより来たり いずこへ旅せんとするや? ヘイ!忙しおましてナ!」から、それらの課題を考えさせられます。
私たちの普段の生活で引き起こされる不安や苦しみ、悩みは本来の自然(じねん)のありさま(縁起の法)を逸脱しているためのゆがみ、きしみの症状なのです。そして、仏の智慧は私たちの分別思考と煩悩による「迷い」が原因であると見破っているのです。
この迷いはいつ始まったのかを考えてみると、人類の祖先が直立歩行を始め、脳の働きと言葉を使うようになった時以来かと思われます。仏教の言葉で言うと「無始」です。辞書を引くと「無限に遠い過去、どこまでさかのぼっても始めがないこと」などの意味があります。始めが無いとは常に「今」、「永遠の今」なのです。
人類の誕生以来、人は迷いを繰り返してきたと思われます。空海が仏教に出会って感得した自分の人生への思いを「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」といわれています。心の暗さが見えるのは、光に出会っていることを示します。人は何度生き死にを繰り返してもなぜ生まれるのか、なぜ死ぬのかを知らないという愚かさ、輪廻の流転を繰り返す凡夫の姿を、空海も仏教に出会って己の姿の中にも見出されたのでしょう。
迷いの解決がなければ、今後どこまでも迷いが続くでしょう。そういう私に解決の方向性、迷いを超える道筋が仏の智慧で見えてきた。これは画期的というか驚愕的なことです。千年、万年続いた暗闇も一瞬の光で明るくなるという仏教の譬えがあります。
迷いを超える方向性が見えてくることは、量的な問題を超えるのです。仏教の智慧は老病死の課題を量的思考から質的思考へ転換させて、迷いを超える道に導いてくれるのです。
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