「今を生きる」第453回   大分合同新聞 令和6年1月8日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(269)
 高血圧症と不眠症で通院している90歳過ぎの女性が、自宅で不眠症の薬を沢山服用して意識障害になり、家族が気づいて、救急病院へ搬送されました。しばらくして意識状態が回復して退院となり、落ち着いてから当院へ来られました。付き添った家族が私に「おばあちゃんが薬をたくさん飲みました」と言われました。私は事情が分からず、少し戸惑っていると患者が「私なんか役に立たない、みんなに迷惑をかける、姨捨山(おばすやま)に捨てられてしかるべきなのに、あの時、あのまま眠りたかった」と言ったことで事情を察し、家族の言葉を納得しました。
 毎朝、仏前で親鸞聖人の「正信偈」を唱えているという人が分別思考で自分を廃品のように考え、悲しい行為に走ったのが悔やまれたため、つい「南無阿弥陀仏の意味を知っていますか?」と聞いてみました。「南無とは帰命、帰依するということだから、阿弥陀仏に帰依します、ではないですか」と答えたので、私が「南無阿弥陀仏の意味はね、役に立つとか立たないとか、迷惑をかけるとか、かけないとか、そんな小さな世界を出て、大きな仏の世界を生きなさい、という意味なのよ」、と言うと、「考え違いをしていましたね」と言われました。
 意識はしっかりしていると思い、法話を録音したものをいろいろ貸してあげると、家族の人が「家で横になっている時は法話の録音を聞いています」と教えてくれました。彼女は数年後、自宅で穏やかに老衰で亡くなりました。
 分別思考は無分別の世界(仏の智慧)を知らないので、老病死に直面した時、自分を分別して廃品のごとく思ってしまうのでしょう。
 フランスのある哲学者の著書には「人生の最後の5−10年を廃品と思わせる文明は挫折していることの証明だ」と書かれています。
 仏の智慧によって多くの因や縁によって生かされているということに目覚める者は、支えられている、願われているということに気づくのです。仏教では生きている間は生かされていることで果たす役割があり、それが私の果たす使命であり、仏から頂いた仕事であるということに目覚めます。そして命ある限り自然と生き生きとした生き方(報恩行)へ導かれるでしょう。それは善いとか悪いということを超えた、その人ならではの生き様になるでしょう。

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