「今を生きる」第455回   大分合同新聞 令和6年2月5日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(281)
 仏の悟りを仏智とか無分別智と言いますが、これは、物事は因・縁・業・果・報というように展開するという「縁起の法」に目覚めたということです。全ての存在は関係性存在であるということです。
 この仏智と医学・医療はどう関係しているのか。縁起の法は全ての存在は因縁和合して一時的(一刹那)に存在して生滅を繰り返している(無我、無常)と教えます。人間もこの法の中の存在です。一刹那ごとに生滅を繰り返すと言っても実感できないと思いますが、一日の単位で考えると、朝,目が覚めた時その日を初体験する私の意識が誕生し、その夜の睡眠中にその日の意識の死があると受け止めるのです。そして翌朝、目覚めれば新たな意識が誕生するのです。医学者の養老孟司氏も、「夜眠る時に意識がなくなるのは、その日の意識の死と受け取るべきだ」と発言しています。その一日の受け止めが一ケ月、一年と積み重なっていくのです。
 基本は、「今、今日」しかないのです。その足し算が人生と言われるものです。「その一日一日を充実して生きていますか?」(最後の日と思えるぐらいに大切に生きていますか)ということです。哲学者フィヒテの「死ぬ心配をする人は今を生きていない」という言葉の意味が受け取れるでしょう。「今、今日」を大切に生きるという視点から、仏教的に「人生とは取り返しのつかない決断の連続である」という言葉があります。
 最近、中学教員をしている姪から「健診でガンの疑いがあり手術を受けることを勧められたけど、どうしたら良いか」という相談を受けました。経過観察を勧めようとしましたが、彼女が「ガンの疑いと言われて仕事も手につかないぐらい不安になる」と言うので、「経過を診るのではなく手術を決断してはっきりさせた方があなたには良いかもしれない」と勧めました。手術を受けてガンではなかったので問題は解決しましたが、その時に前記の「取り返しつかない決断の連続」という言葉を教えたら、「そんなこと考えたこともなかった」と言うのです。
 平穏な日々を過ごしていて、ガンかもしれないと言われ急に「死」の不安に襲われるたわけですが、そうではないのです、縁次第ではいつ死んでもおかしくない生命を今、生かされて生きているのです。死を忘却して生きていると毎日がマンネリ化して生きることが輝かず、生きても生きたことにならない空過流転になりますよと教えているのです。

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