「今を生きる」第456回   大分合同新聞 令和6年2月19日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(282)
 医療という仕事は病気を健康に戻す、リハビリして日常生活へ戻すことを目標にしています。そのために世界中の情報を集めて、それが日々更新されています。しかし、治癒できない症例や回復できない老病死には対症療法をするしかありません。生きる人間として自然なことで、それを受け止めることの重要さを多くの医療者が述べますが、なかなか困難なことなのです。医学は、老病死を先送りするという選択しか教えてくれません。
 あるお坊さんが記した話を紹介します。社会で活躍され65歳で定年退職をし、その後も悠々自適に、夫婦で仲むつまじく暮らしている人がいました。75歳の時、僧侶に「このまま人生を終わるのでしょうか」と不安を訴え、僧侶が「生き方の問題ですか」と問うと、「そうだ」と本音で答えました。80歳になった頃、体調を崩して入院し、その後は施設で会話も難しい状態になって亡くなられました。葬儀の相談を受けた僧侶はその時、自分の役割を十分に果たせなかったことを悔いたということです。
 仏教で教える「迷い超える」の超えるとは、質的転回を遂げること。長生きを望む人が、仏の智慧により命の長短にとらわれず、与えられた役割を自分の仕事と目覚め精進するよう導かれるのです。
 宗教哲学者の大峯顕師は哲学者フィヒテの言葉を紹介しています、「死というものは、どこかにあるのではなくて、真に生きることのできない人に対してのみある」。いつも「明日こそ明日こそ」(明日が目的で、今日を明日のための手段・道具のように扱う)と言って、今を生き切れていない人に死があり、今日を精一杯生きている人には死はないのだと言います。
 今を生ききるということを、明治時代の学僧清沢満之は、「天命に安んじて人事を尽くす」と言われました。今日、自分に与えられた場、状況を引き受けて完全燃焼する。そういう人には死は問題ではなくなるのです。「死が人を殺すのではなく、死せる人間、生きることのできない人間が死を作り出すのである」ともフィヒテは言っています。
 自己流に精一杯生きたと言っても、そこに仏の智慧をいただくということがないと不十分なのです。仏の智慧(無分別智)で現実を十二分引き受け、生かされていることで果たす私の役割・使命、仏からいただいた仕事として「(生きる死ぬは仏へお任せして)精一杯生ききる」ことに導かれるのです。

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