「今を生きる」第457回   大分合同新聞 令和6年3月4日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(283)
 仏教の「迷い(生死、しょうじ)を超える」とは「死」の受け止めの質的転換を教えています。私たちの思考では生きているうちに死を経験することはできません。多くの患者の死に遭遇する医療関係者も他人の肉体の死を見ているだけで、死が本質的にどういうものかは分からないのです。
 仏の悟りでは、縁起の法によってガンジス川の砂の数ほどの因や縁が和合して今の私が存在しており、それが一刹那ごとに生滅を繰り返しているというように死を受け止めます。固定した「私」はなく(無我)、常に変化するありさま(無常)をした集合体だというのです。そして常に「今しかない」と教えます。
 最近高校の同級生が心筋梗塞によって74歳で亡くなりました。縁起の法では、私という存在は常に死と隣り合わせに生きていると教えます。人間のありさまを透徹した智慧の目で見ると、「いつ死んでもおかしくない」という存在として「有ること難し」で生きているのです。
 朝、仏の智慧の目(念仏)で「今日」を初体験する私の意識が誕生したと受け止め、昼間は天命に安んじて人事を尽くして生きる。そして、夜寝る時には仏智によって意識の死と受け止め、「仏さんへお任せします、南無阿弥陀仏」と眠りに就くのです。
 日頃から仏の智慧に触れ、私の分別思考の狭さ(仏の無分別思考から見ると次元が低い)に気づく、そして思考の背後に煩悩性が潜み、それが思考をゆがめていることに目が覚めることが大切です。そのありさまを「迷い」と表現しているのです。現代人は自分の分別知に自信をもって、その迷いの姿になかなか気づきません。仏の智慧(無分別知)に触れないと自分の愚かさが見えません。今の時代、物質的な豊かさは実現しているかもしれませんが、精神的な面ではどうでしょう。人生の晩年の心の豊かさは実現できているでしょうか。
 自分の思考を超えた世界(仏の智慧)に触れないと自分の迷い、愚かさに気づくことはできません。結果として目覚めさせてくれたことに「参った、教えの通りでありました」と頭が下がる(懴悔)、そのことで仏へお任せし、安心(あんじん)に導かれるのです。

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