「今を生きる」第458回   大分合同新聞 令和6年3月25日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(284)
 私が小学生の頃は井戸水を釣瓶(ルビでつるべ)で汲(ルビでく)み,かまどでご飯を炊き、風呂は松葉や木を燃やして沸かし、冷蔵庫も洗濯機もありませんでした。現在の電気用品の豊富さは隔世の感があります。通信機器や交通の手段も当時からすると夢のようです。しかし、現在を生きる人間の心・意識に引き起こされるものは、約60年前と比べて質的には違いはあっても、心の不安・苦悩はほとんど同じだろうと思われます。
 夏目漱石の講演録に次のような趣旨の記述があります。文明の発達は人間のエネルギーを節約して楽にするためであって、新技術を考案して便利な物を生み出してきた。人力車、自転車、汽車や自動車、そして飛行機などだ。その結果、人はこれらを造るためにひたすら働くことになる。新しい道具ができることで、人はもっと楽しみたいと欲望を膨らませる。そのため生活は多忙になり、激しい競争の中で身も心も消耗していく、というのです。
 私たちは楽な方法で、そして早く目的地に着きたいと考えます。家事が楽になればいい、長生きしたい、人生を楽しみたい、などと願っています。「より早く、より多く」を目指して経済を成長させ、欲望を満たすことが幸福だと考えてきました。しかし、それで本当に心から幸せだと感じているでしょうか。
 私たちは分別思考で物事からくりを解明して、自分の思いを実現しようとか、管理支配しようと考えて進みます。事が順調に進む場合は良いのですが、思い通りにならないと、それが苦になるのです。分別思考の×要因、マイナス価値、損、悪、負けがなかなか受け取れず苦悩し、不安を引き起こすのです。
 仏教の師から「人間の迷いの大本は物事を対象的に見るところにある」と教えられましたが、その意味が分かるまでにかなりの時間を要しました。対象化しないとはどういうことでしょうか。仏教の基本である縁起の法は、全ての存在・事象は関係性があるというのです。それを「身土不二(ルビでしんどふに)」というのですが、私の身と周囲の環境はぴったりと一体の関係だというのです。この場合、私は環境を二人称的(身近なもの)に捉えています。
 それに対して対象化は三人称で、私と距離を置いた関係(他人事(ルビでひとごと)に見ているのです。分別思考は三人称的に考えることになります。二人称的に考えるということは他人事に思わず、自分の背負うべき現実にとなるのです。

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