「今を生きる」第460回   大分合同新聞 令和6年4月29日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(286)
 大分大学医学部(医学科、看護学科)で講義した後の感想文で、「宗教というのは、死に直面した患者が神や仏に救いを求めてすがるもの」と認識している学生がいたことに違和感を感じました。しかし、かって私自身も医学生になって数年の間は、この学生と同じような偏見を宗教に対してもっていたと思います。
 私が学んでいた九州大には、仏教青年会(仏青)というのがあり、法学部や医学部の先輩たちが無料で法律や医療相談をしていました。仏教には無関心でしたが、この活動への興味と、(仏青の寮に入ると)部屋代が安いということに引かれ、4年生の時に参加。指導されていた教授の人間性に触れるにつれ、偏見はうすれていきました。5年生の時、立候補する人がいなかったこともあって仏青の総務になり、いや応なく主体的に関わるようになりました。その頃、他大学で仏教研究会を指導されていた細川巌師(化学の教授)と出会ったのです。それが仏教の学びの縁となり、講義を聞いているうちに偏見はなくなっていきました。そして、仏教が教えているのは、自分を取り巻く状況がどうかではなく、「私自身が問題なのだ」ということを知らされたのです。
 仏陀は、私たちの考え方の基にある相対分別思考に潜む(自己中心的な)煩悩性に問題があることに目覚めた人です。その内容を「縁起の法」と言い、この世の存在の全てが関係存在であるといっています。
 網は、結び目で全体へつながっています。無数の結び目に宝珠があると、それらは互いに映じ合って、映じた宝珠がさらに映じ合います。このように、世界の全存在はおのおの関係しながら、互いに障害となることなく存在しているのです。これを事事無礙法界(じじむげほっかい)と表現し、二人称的な関係性を示しています。
 ある仏教学者が問題を抱えて生活の乱れた学生に「あなたの良い所も悪い所も丸ごと合わせてあなた自身。自分を愛せなくて、どうして他人を愛することができますか」と諭されたそうです。後日、学生は「今の取り巻く状況が苦しめていると思っていたが、それは自分の現状(外部要因)を対象化していたのだ(私を苦しめるものとして外ばかり見ていた)。現実を受け止められない自分の内面こそが問題なのだと気づかされた」と述懐しています。

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