「今を生きる」第461回   大分合同新聞 令和6年5月20日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(287)
 読者から「分別思考」「相対分別」「無分別」「二人称」「三人称」「対象化」という言葉が分かりづらいという声を聞きました。これらについて説明をしたいと思います。
 毎日の生活で買い物をする時、値段が安いか高いか、品物が良いか悪いか、私のニーズに合っているかどうかを判断するでしょう。どちらとも言えないという場合もありますが、これは両者を比較して決定する考え方であり、分別思考と表現しています。
 それに対して無分別とは、仏の智慧(ルビでちえ)の視点で白黒の判断をせず、分別せずに見る見方です。大地がすべてを分け隔てなく(重い、軽いの愚痴を言わず)受け止めているような視点です。水は綺麗とか汚いとか区別をせず、皆を平等に潤します。これも無分別で,仏教では「分別を超えた」という意味になります。
 相対とは、例えば風呂の湯加減の判断するときに熱いとか、冷たいとか、ちょうど良いとか、限られた基準で判断することです。これを相対分別と言います。判断基準内(狭い)での思考しかできません。
 対象化とは、周りで起こった事象を自分とは切り離し、よそ事として見たり考えたりすることです。この場合、真剣に、自分のことと考えるのを一人称的思考といいます。 一方、私のことではないが、切っても切れない、親密な関係として考えるとき、「二人称」的思考と表現します。他人事(ルビでひとごと)と思えないという見方です。母親が子を思うような、一体感に近い関係の思考です。
 三人称は「彼、彼女、それ」というような距離を置いた間柄で見る視点です、対象化しているとも言えます。客観性を尊重した、私情をはさまない科学的な見方です。これが過度になると、命ある人間を物や道具のように見て人材と表現することもあります。
 仏教では、対象化する物の見方が迷いの本(ルビでもと)だと教えられます。その思考は、家族や愛する人でも人間性を無視し、物や道具のように見るかもしれないからです。それが地獄・餓鬼・畜生の世界を生きることになります。二人称的に「汝(ルビでなんじ)」と呼びかける南無阿弥陀仏は、「汝、小さな分別の世界を出て、大きな仏の智慧の世界を生きよ」と人間性を回復する働きの言葉になった仏なのです。

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