「今を生きる」第462回   大分合同新聞 令和6年6月3日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(288)
 私たちは分別思考で日々を過ごしていいて、いつも「私」を中心に外を眺めます。目は外を向いているわけですから、周りで起きたことを観察し、出来事の原因、動向を調べ、客観的に把握して社会生活や家庭生活を営んでいます。
 科学技術も進歩し、衣食住だけでなく交通・通信手段などが便利になった現在。豊かな社会生活を享受するためには、物事を正しく判断できる、しっかりした私がいて、私の(持ち物であるかのような)知識・技術、経済力・社会的地位が大切だと考えています。それが世間的な豊かさ、楽しさ、安定、安心に密接に関係すると思っています。
 仏教はそういう思考の中心に据えている「私」を問題にしているのです。自我意識は確固とした私が存在することが前提です。しかし、仏教の目覚めである「縁起の法」は、私という存在は無数の因や縁が仮に和合して存在している(無我)だけで、一刹那ごとに生滅(死に裏打ちされて生がある)を繰り返している(無常)のだと見抜いているのです。
 仏の智慧(ルビでちえ、無分別智)の目は、この世に「常(安定したもの)楽(思い通りになる)我(確固とした私)浄(人間の描く理想世界)」はないと見ています。一方、煩悩まみれの分別思考は、「常楽我浄」がないと困ると思って追い求めています。ないものを求めているのですから、一時的な実現はあっても、継続した満足は不可能(無常)です。
 また「苦悩」する原因は、実現不可能なものを目指しているからだと見破っています。私の分別思考が次元が低く、狭くて局所的であり、煩悩に汚染されているのが問題だということです。仏の無分別智なら、それらを克服できると教えています。
 私たちは、苦悩の元凶のマイナス、×(ルビでばつ)要因などなければいいと考えますが、それらにも意味があるのだと仏智は見ています。宗教者の「天命に安んじて人事を尽くす」、「置かれた場所で咲きなさい」との言葉はその受けとめを示しています。
 南無阿弥陀仏は「汝、小さな分別の殻を出て、大きな仏の智慧(無分別智)の世界を生きよ」の呼び覚ましの声なのです。

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