「今を生きる」第463回 大分合同新聞 令和6年6月24日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(289)
医療現場では、新型コロナウイルス感染症が通常の風邪と同様の対応となりました。予防や症状の推移、治療結果など、次の世界的流行に備えて検証がなされています。ワクチンの評価も、客観性を持った検証報告が出てきています。多くの命を救った功績はノーベル賞受賞に象徴されていますが、副作用による被害者も少ないながらも確実に存在します。
国は、治療法が確立されていない、この未知なる感染症対策に、初期データで90%以上の効果があったワクチンの無料接種を推奨。医学教育を受けた者として信頼ができると判断し、自らも受け、一般の人への接種にも従事しました。それでも、今年初めに病院内でクラスターが発生。症状は非常に軽かったものの、私自身も感染しました。
予防接種については、賛否が分かれるところでしょう。受けなくてもよかったという人もいれば、逆に罹患(りかん)して症状がひどかったり、後遺症に悩んでいたりすると、受けた方が良かったと思うかもしれません。国が多くの人を救いたいと考えても、個人は(多数の国民より)私一人の救いを求めているのです。両者が満足することは不可能です。
私たちは、その時々に自分では良かれと思って決断してきました。仏教では、人生とは取り返しのつかない決断の連続であると言います。健康の維持、病気の治癒の機序は未解明な部分が多く、副作用が起こるかどうかについても判断が難しいのです。
分子や細胞レベルで密集した身体はエントロピーの法則で必ず拡散していくという自然の原則を免れません。そのため生物は個体を維持するために、壊れる前に自分で部分的に壊し、それを再合成することで体の組織を維持しています。いわば自転車操業みたいですが、止まることなく死に裏打ちされて生かされているのです。つまり一瞬、一瞬に生滅を繰り返しているわけです。
脳への酸素の供給が3分間途絶えると、脳死になるといわれています。代謝が止まれば死が待っているのです。釈尊の目覚め、「縁起の法」の確かさを、生物学・医学が証明しているということに驚かされます。
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