「今を生きる」第464回 大分合同新聞 令和6年7月8日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(290)
日本老年学会は、高齢者を「75歳以上」とし、超高齢者を「90歳以上」とするという報告書を公表しました。高齢者になってあちこちに加齢現象の露呈を実感する時、一人一人の人生の満足度・充実度は生きている時間の長さではなく、比較を超えた質的な心境ではないかと思うようになりました。
高名な医師が「ぼくは今、健康づくりの極意として『おもしろいことをした人が勝ち。おいしいものを食べた人が勝ち』と言っています」というのがありましたが、仏教は他と比較したり、勝ち負けに振り回されることを「迷い」として、それを超えるというものです。そのことで思い出されるのが、親交のある僧侶の言葉です。
国立大に進もうと思っていた子どもに、父親である僧侶が「大谷大学(東本願寺関係の大学)に行ってくれ。おまえがどんな生き方をするか知らないが、どんなに人から褒められたとしても、仏教がなかったら夢のように終わる。それさえあれば、貧しくても豊でも全部自分の人生になる。だから、他のことは分からなくてもいい、仏教が分かるために行ってくれ」と泣いて頼んだそうです。これを聞いた子どもは、父親の勧める大学に入ったといいます。
日常では分別思考で善悪、損得、勝ち負けを考えないと生活することができません。しかし、自分が高齢者となって人生を振り返ってみると、先の言葉は含蓄があると思われるのです。
農民詩人として宗教的な心で書かれた村上志染(しぜん)の詩に、「方一尺(いっしゃく)の天地、水馬(みずすまし)しきりに 円を描(か)ける なんじ いずこより来たり いずこへ旅せんとするや? ヘイ! 忙しおましてナ!」というのがあります。日常生活において、分別に振り回されている様子を知らされます。
仏教の智慧(ちえ)(悟り)や無分別智の世界は、日常の分別知とは異質な世界です。仏の智慧によって私たちの分別(世間的な考え)が照らされる時、自分の分別思考の狭さ、局所性、煩悩に汚染されていることに目覚め、迷いに振り回されていることに驚きます。しかし、その迷いにも意味があると教えられ、「人生はやり直しはできないが、見直しはできる」という世界に導かれるのです。
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