「今を生きる」第466回 大分合同新聞 令和6年8月5日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(292)
今年の法語カレンダーに「行いと言葉の背後に、世間があるか、如来があるか」と掲載されていました。行いや言葉を発する意識(心)が、世間の目を気にしたものか、仏の目を気にしたものかということでしょう。同じようなことばに、詩人相田みつをの「そんかとくか、人間のものさし、うそかまことか、仏のものさし」があります。
人は普通、私が中心にいて、その周りの状況や条件が自分の幸不幸、勝ち負け、成功失敗を決めると考えます。日本では、その価値尺度の幅が狭い(公的地位や寄らば大樹の陰傾向)ところがあり、自分の置かれた状況・状態における、世間の目を気にする価値判断に一喜一憂しています。これが分別思考です。
一方、仏教は思考は、中心にいるはずの私は無我(実体がない)で無常(常に変化している)で、固定した存在ではないと考えます。現実(物事)をあるがままに見て、それと私は密接な関係であり、何を教え、気付かせ、演じさせようとしているのか(物の言う声を聞く)という受け止め方です。これを無分別智の思考といいます。
つまり、分別思考にまとわりつく価値観で判断するのではなく、周りの状況の背後に宿されている意味や物語を深く熟慮するということなのです。それは、過去の行いの結果を結論と考えるのではなく、その現実の背後に宿されるものを深く思考することでもあります。
例えば、科学実験は仮説を立てて、それを証明するためになされますが、予定通りの結果が出るとは限りません。想定外になっても、その事実の背後の事象や意味を考える過程で科学は進歩してきました。ノーベル賞を受賞した科学者の話を聞くと、実験の結果の想定外の所見が出現した時に、その意味するものへの思考から新しい発見に導かれたという話をよく耳にします。
人生においても同じといえます。種々の事象が仏教の異質な発想(仏智・無分別智)に触れて(化学実験の触媒のように)、世間的に失敗や負け、不幸と思われたことも無駄でなかった、意味があると見直されるのです。=次に続く=
|