「今を生きる」第467回 大分合同新聞 令和6年8月26日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(293)
普通の思考では、私がここに居て、外の事象を対象化して情報を見たり、聞いたり、触ったりして認識しています。しかしよく考えてみると、外の物の映像が目の網膜に入ってきて、外の音が空気を通して鼓膜を振動させています。事物のざらざら感や冷感は外から皮膚へ来ているのです。人間の感覚器と外の事象は、密接な相互関係があるといえるでしょう。
人の体は、今まで食べたり、飲んだりした物で構成されています。自分の自我意識がつくったものはありません。ところが、脳に発生したと思われるそれは、主人公みたいにいつの間にか体を管理支配し、お礼もいわずこき使っています。時には背が低いとか太っている、容姿が悪いなど自分の体を分別して文句を言いのです。
悩み事の相談役をされていた、作家の高史明氏のエピソードがあります。自死しようと思い詰めた中学生が訪ねてきた時のことです。高氏は「死にたいと考えているのは君の頭か」と確かめ、「それなら今日帰って風呂に入り、心臓や肺、足に本当に死にたいか相談してみなさい」とアドバイスしたそうです。後日、その中学生から「体は死にたいと言ってないことに気づいた」と手紙が届き、死ぬことを思いをとどまったということでした。
自我意識は今、自分にない物、足りない価値ある物を集めて満足や幸せ感を得ようとしています。その心の内面は不足・不満で、幸福を求めれば求めるほど不幸になるのです。無分別智で存在の満足・知足を感じる者は求める必要がありません。
事故で手足が不自由になった、詩画作家の星野富弘氏は、健康を追い求める心は「苦しかった」と言っています。しかし、キリスト教にご縁ができ、気づき、目覚めの世界に触れ、現実をあるがままに、素直に見る無分別智を教えられました。そして、与えられた状況の中で精いっぱい生きる勇気(スピリット、物質世界から離れた「精神」「心」「霊性」など)を頂いた時、「生きているのが嬉しかった」と表現されています。
|