「今を生きる」第470回   大分合同新聞 令和6年10月14日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(296)
 オリンピック選手の一人が、メダルを期待されながら不運な結果に終わったことに対し、「一生懸命に頑張って苦しんだことは無駄だったのか」という感想を言っていました。人生において失敗、敗北、そして運が悪かったり、願い事かなわなかったりすることなどを経験しない人はいないでしょう。
 長年、分別思考で生きてきた経験で培った人生観や価値観のために、結果がどうであれ、それらは苦楽の因となります。仏教は、願い事がかなっても天国にはとどまれず(仏教では「天人五衰」という)、天上から落ちる苦しみは地獄の16倍とされていて、迷いを繰り返すことを免れないと教えます。分別によってマイナス要因、バツ要因を消し去りたいという考え方では、人生は生きづらく、虚しさや孤独感を招くのです。
 仏教者の言葉に「やり直しのきかぬ人生であるが、見直すことはできる」があります。“見直す”とは、世間的な敗者復活ができるのではなく、仏教は質的なコペルニクス的転換を教えているのです。これは、自分にとって都合の悪い事象も、意味あるものに転換させる、「転成(てんじょう)の智慧」と言われます。
 哲学者ボーヴォワールは著書『老い』で「人生の最後の15−20年を廃品と思わせる文明は挫折している証明だ」と書いています。人生が無意味になるほど、深刻な苦悩はないのではないでしょうか。
 思うようにならなかった現実を前に逃げたり、なかったことにするー。そんな愚痴るしかないような現実でも、仏の無分別智は思考自体を翻す働きをします。それは人生の一切(老病死を含む)に意味があると気付かせるのです。智慧(無量光)は夢(幻想)を破り、分別の闇を破り、分別思考で求めていた成功、勝ち、得、善、幸などをもはや必要ないと思えるほどに転回させます。
 求めていたのは思いへの執着で、実現不可能なこと(常楽我浄)であり、煩悩に振り回されていたのです。そんな分別思考の監獄にいたと目覚め、とらわれから解放され、自由な世界へ生まれ変わるのです。

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