「今を生きる」第471回 大分合同新聞 令和6年11月4日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(297)
私たちはこれまで、学校で分別思考によって考える訓練を受けてきました。物事の長短、美醜、優劣というように二つに分けて(二分法)考えてきたわけです。それを固定的に観念化し(こういうものだと自分で決めて)、そこに価値というものが付随するようになると、それが差別語につながる可能性があります。そして、価値あるものを尊重し、無いものを捨てよとします。
無分別智の世界とは、自然の大地・空気・水・火は私たちの生活に対してあるがままに(自然に)働きかけていると理解することです。しかし、世間生活で分別思考を止めて仏智、無分別智だけで生きていけるかというと、不可能だと思います。ただ、この世界を教えてもらうことによって分別思考の問題点が明らかになるのです。
仏の覚(さと)りの内容とは「縁起の法」です。縁起とは「縁によって起こる」ということ。つまり「この世のあらゆる物事には必ず原因と結果があり、関連性があり、単独で存在することはない」のです。ある「因」があり、それが「縁」に触れて動き(業)が起こり、結果「果」を生じ、次なるものに影響(報)を及ぼします(因縁業果報)。物事に固定した存在はなく、常に変化している(無我・無常)ことなのです。
私たちは、自分に都合の良い価値は変わらないで欲しい(常)、苦は嫌で楽がいい(楽)、しっかりした信念を持った「私」でありたい(我)、理想の世界を目指すのが人間のあるべき姿(浄)だと無意識に思っています。日々の生活で「常楽我浄」を求め、その実現を目指して生きているのです。その場合、今、自分にあるものは当たり前当然のものとして、無いものを追い求めます。
このように、私たちは無いものを入手して思い通りに、自由に生きたいと考えます。しかし神学者森本あんりは、「思い通り」になることを「自由」だと履き違えていると指摘し、この欲望の状態を「思い」や「感情」の隷属だと言っています。なぜなら、これらは「縁」次第でころころと変化していくものだからです。
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