「今を生きる」第473回 大分合同新聞 令和6年12月16日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(299)
医療・福祉の領域における、人生の最終段階について話し合う「人生会議」には、宗教者か臨床宗教師(チャプレン)の参加が望ましいと考えています。多くの場合は医療・福祉チームと家族の協議だけで間に合うかもしれませんが、患者の中には哲学的・宗教的な救済を無意識に願っている人もいるのです。全人的医療、患者に寄り添う医療を考える時、医学・看護学・福祉の関係者だけではカバーできない領域があるということなのです。
患者が「死にたくない」「長生きしたい」と発言する場合、多くの医療者は言葉通りに「最善の救命、延命処置を希望している」と受け取るでしょう。しかし、仏教の智慧(註)の世界において、それがどこまでかなえられれば満足できるだろうかと考えてみると、「きりがない果てしない夢」であることに気づくでしょう(「足るを知る」ではない)。つまり実現不可能なことを願っているのです。
古川泰龍(1920-2000、真言宗僧侶)は著書『「死」は救えるか 医療と宗教の原点』の中で、「死にたくない」「長生きしたい」という心の背後にあるものを推察すると、それは死のない世界、死なない世界、無量寿、南無阿弥陀仏に出会いたいという宗教的目覚めを求める叫びだ-と述べています。また、大峯顯(1929-2018、哲学者、大阪大学名誉教授)も講演の中で、このような発言は「哲学的には無意識なる宗教的目覚めを求める叫び」だ言っています。
人は、自分に関心のない領域(哲学・宗教)を個人の趣味や道楽のようなものだと考える傾向にあります。それは、死が人間の心の本質的な普遍的課題だという認識に欠けて(無視)いるからではないでしょうか。私たち(医療人)は、「十分に配慮して全体をカバーしている」という傲慢さに気づくことが大切なのだと思います。
註:「知恵」は世間的な物の表面的価値を計算する見方ですが、「智慧」は物の背後に宿されている意味を感得する見方です。
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